左丘明左丘明(さきゅうめい)は、春秋時代の人。生没年不詳。『論語』に登場する。伝統的に『春秋左氏伝』および『国語』の作者とされているが、『春秋左氏伝』の偽作説とも関連し、その人物には不明の点が多い。 名前「左丘明」という名前がどのように区切られるかは、諸説ある。 「左邱明」と書いてあることもあるが、これは孔子の名の「丘」を避諱したものである[4]。 出身『魏書』地形志には、兗州東平郡富城県に左丘明の冢があると記す。現在の山東省泰安市肥城市にあたる。 時代『論語』公冶長篇で孔子が左丘明をほめているため、孔子と同時代かそれより前の人とわかる。 『春秋左氏伝』の作者については、劉向『別録』に、左丘明が『左伝』を曽申(曽子の子)に伝え、曽申が呉起に伝えたとしている[6]。このことから孔子と同時代かそれより少し後の人とわかる。 失明説『史記』太史公自序によると、左丘明は目が見えなかったという[7]。 春秋左氏伝『史記』十二諸侯年表に左丘明が『左氏春秋』を作ったことを述べ[5]、『漢書』司馬遷伝も同様である[8]。ただし、『春秋左氏伝』の左氏が左丘明でないとする説も唐以来存在する[9]。また、司馬遷のいう『左氏春秋』が現在の『春秋左氏伝』と同一の書であったかどうかは、劉逢禄以来の議論がある。 国語『史記』太史公自序[7]や『漢書』司馬遷伝[8]では、左丘明を『国語』の作者でもあるとしている。 子孫朝鮮氏族の済州左氏の始祖である左亨蘇は、左丘明の子孫[10]。 脚注
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