川口村 (広島県)
川口村(かわぐちむら)は、かつて広島県深安郡に存在した村である。 相当地域深安郡川口村に相当する現在の地域は、以下の通りである。 福山市川口町、多治米町、東川口町、新涯町、曙町、西新涯町、新浜町、千代田町、及び松浜町の一部[1]。 歴史この地域は、福山藩による干拓で造成された地域である。1600年代後半に行われた水野家による干拓で、水野家家老 上田玄蕃直次の指揮の下、現在の川口町・多治米町・東川口町に相当する地域が造成された[2]。その後、幕末から明治にかけて行われた阿部家による干拓で現在の新涯町・西新涯町・曙町・新浜町にあたる地域が造成された。 明治維新以降しばらくは川口村(本頁で述べている川口村ではなく、江戸時代からの村。旧川口村とする)、多治米村、一番、二番、三番新涯村という風にいくつかの村に分かれていたが、1889年の町村制施行でこれらが合併して川口村が成立し、同年選挙が行われて11名の議員が選出された。川口・多治米・新涯の戸長を勤めていた多木市兵衛が川口村村長となり、村役場には助役1人、収入役1人、書記4人、使丁2人が置かれた。[3] 戸数は1894年時点で618戸だった。 1898年、深津郡が安那郡と合併したことにより、深安郡が成立、深安郡川口村となった。 村役場は旧川口村の頃から利用されていたものを使っていたが、1924年に現在福山市農協川口支店がある辺りに移転した。 1933年、川口村は福山市に編入合併し、福山市川口町となり、自治体としての川口村は幕を閉じた。 出身人物衣川閑斎…儒学者。福山藩儒。藩校弘道館館長を務めた。旧川口村出身 三村日修…日蓮宗の僧侶。日蓮宗管長、身延山法主。旧川口村出身 社寺、学校など
明治までは寺子屋が数件存在した。寺子屋を開いていたのは庄屋、医者、僧侶などであった。 行政川口村の行政は村長を中心に、庶務掛、兵事掛、租税掛、労務掛、勧業掛、収入事務などの担当に分かれて職務を行っていた。明治期の川口村役場の役職者は次の通り。[4]
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