島田孝一島田 孝一(しまだ こういち[1]、1893年(明治26年)[2] - 1987年(昭和62年))は、日本の交通経済学者。商学博士[2][3][4]。 早稲田大学名誉教授[1]。第6代早稲田大学総長(1946年 - 1954年)、流通経済大学初代学長(1965年-1974年)、日本交通学会初代会長(1941年-1973年)。初代日本私立大学連盟会長(1951年 - 1955年)。 来歴東京麹町の番町(現・千代田区四番町)で生まれた[5]。島田三郎の長男[2]。父・三郎は民権運動の功労者で、衆議院議長に挙げられた[2]。 1906年に東京高等師範学校附属小学校(現、筑波大学附属小学校)、1911年に東京高等師範学校附属中学校(現、筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。 1917年、早稲田大学大学部商科を卒業[3][6]。ペンシルベニア大学ウォートン・スクールへ留学、帰国後は早大にて交通経済学、鉄道経済論、電車及自動車論等を講じた[7]。 太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦後、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)による教育機関の民主化、反軍国主義化の苛烈な措置が取られてゆく中で、早稲田大学においても大学総長の公選制が導入され、1946年5月の総長選においては敗戦による歴史観の転換を受け、当時の史学界でカリスマ的な存在となりつつあった津田左右吉が選出されたものの、津田が総長就任を固辞したため、再選挙の結果島田が当選し、同年9月より第六代早稲田大学総長に就任した[8]。 占領下の学制改革による旧制大学から新制大学への移行に伴い大学が混乱する中で、専門部・夜間専門学校の廃止と第二学部の発足、教旨の改訂(第四節から「立憲帝国の忠良なる臣民として」の一文を削除)[9]、新制大学院修士課程・博士課程の設置など、大学教育の制度や価値観が変わりゆく中、戦後の再出発を図る早稲田大学の環境整備に務めた[8]。 1964年に早稲田大学を定年退職。日本通運株式会社に設けられた、大学設立準備委員会(学校法人日通学園及び流通経済大学設立のために設けられた組織)に、顧問として委嘱され、交通・物流関連のカリキュラム策定に携わる[要出典]。 1965年、学校法人日通学園理事及び流通経済大学の学長に就任[10]。 1974年、流通経済大学学長を退任。日通学園の理事は1984年まで継続[要出典]。 人物早稲田大学総長として私学の振興に尽くし、首都圏整備委員・都市交通審議会長等として交通対策樹立に貢献した[1]。 島田について流通経済大学学長の佐伯弘治は「資性温厚で、感情を露にされるようなことのない方であるが、時折、反権力的なキリッとした姿勢をのぞかせることがあった。」と述べている[5]。 趣味は登山、スキー[3]、ゴルフ[4]。宗教はキリスト教[2][3]。住所は東京都千代田区四番町[1]、新宿区戸塚町[2]。 栄典家族・親族
著書単著
共編著
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |