岸清一
岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日(1867年8月3日) - 1933年(昭和8年)10月29日)は、日本の弁護士、政治家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育・スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。法学博士。 生涯慶応3年7月4日(1867年8月3日)、松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士・岸伴平の次男として生まれる。小学校時代の同級生に若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)がいる。岸と若槻は血のつながりはないが、近い親類だった[注釈 1][1]。 松江雑賀小学校、島根県第一中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、大学予備門を経て東京帝国大学法科大学英法科に進学。 1889年(明治22年)7月に東京帝大を卒業後、代言人免許を受け、岸法律事務所を東京の京橋に設置。1893年(明治26年)に制度改正により弁護士となる。 法律の調査・視察の為に数回の渡欧後、1910年(明治43年)10月に法学博士となった。1915年(大正4年)、東京弁護士会会長に就任。1927年(昭和2年)には第一東京弁護士会会長に就任するなど法曹界の重鎮であり、特に民事訴訟法の権威であった。 1932年(昭和7年)3月15日には勅選の貴族院議員となり[2]、死去まで務めた。 1933年(昭和8年)10月29日、病気のため死去。66歳没。 日本スポーツ界の功労者岸はまた、日本スポーツ界発展に尽くした人物として知られる。岸は東京帝国大学在学中には漕艇で活躍した。 1911年(明治44年)に大日本体育協会(日本体育協会)が嘉納治五郎によって設立された際には維持員として参画し、1916年(大正5年)には副会長に就任。1921年(大正10年)3月に第2代会長に就任した。 1920年(大正9年)6月には日本漕艇協会(日本ローイング協会)初代会長に就任した(1921年(大正10年)6月まで、以降は顧問となる)。 1924年(大正13年)6月 国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、死去するまで務めた。また野津謙専務理事(後に日本サッカー協会(JFA)会長)と共に大日本蹴球協会(のちのJFA)の国際サッカー連盟(FIFA)加盟(1929年)にも尽力した。 1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルスオリンピックにはIOC委員として参加している。 1924年(大正13年)3月に紺綬褒章を受章した。岸の故郷である松江市の島根県庁には岸の銅像があり、1964年に除幕式が行われた際には当時のIOC会長であったアベリー・ブランデージが自ら出席し、『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』と讃辞を述べ、岸の功績を讃えた[3]。 岸の死後に遺言により100万円の寄付がなされ、1940年(昭和15年)にお茶の水[注釈 2]に岸記念体育会館が建設され、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催を機に同年7月に渋谷の代々木に移転された。2018年(平成30年)11月8日、日本スポーツ協会理事会で岸記念体育会館を新国立競技場の隣接地に移転し「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」と名称を改めることとなり、館内に「岸清一メモリアルルーム」が設けられることが決定した[4]。 2019年(平成31年)4月6-7日、岸清一の胸像が同月30日に竣工した「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」の前に岸記念体育会館から移設された[5]。 岸の故郷である松江市では岸の名を冠した『岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン』大会が毎年3月に開催され[6]、毎年7月下旬には『岸清一記念 松江市民レガッタ』大会が開催されている[7]。また岸が漕艇選手出身だったということで松江市に2019年3月、『岸清一記念艇庫』が建てられオープンした[8]。 関連作品
脚注注釈出典
外部リンク
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