岸本正雄岸本 正雄(きしもと まさお、1881年〈明治14年〉10月19日[1] - 1963年〈昭和38年〉5月20日[2])は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、樺太庁長官。 経歴鳥取県出身。税吏・岸本俊一の長男として生まれる。父の転勤のため東北各県に居住。福島県立会津中学校を経て第二高等学校を首席で卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し北海道庁属となる[3][4][5]。 以後、秋田県事務官(高等官)、山形県事務官・警察部長、同県警察部長、滋賀県警察部長、福岡県警察部長、香川県内務部長、関東庁警務局長などを歴任[5]。 1922年10月、秋田県知事に就任。町村農業技術員、産米検査員、農業補習学校教員の三者を一体化した「三職兼務制」を実施し、合理的な農政推進を図った[6]。1924年6月、山形県知事に転任。小作問題への対応に尽力。同年12月に知事を辞職[7]。1927年5月、岡山県知事(「岡山県知事一覧」参照)に就任。道路改修十カ年継続事業、女学校など12校の県営移管などを推進し、県財政の悪化を招いた[8]。1928年5月、広島県知事(「広島県知事一覧」参照)に転任。左翼思想の取締りを推進。1929年7月、知事を辞職[3]。1931年12月、樺太庁長官(「樺太庁#樺太庁長官」参照)に就任するが、犬養内閣の退陣により1932年7月に辞職し退官した[3][9]。 その後、天童市や山形市において農事開拓などを行い、独自の農業構想の実践に取り組んだ[3]。 親族
脚注参考文献
関連項目 |