岩沢庸徳
岩澤 庸徳(いわさわ つねのり、1912年2月12日 - 1970年10月3日)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8]。新漢字表記岩沢 庸徳。並木路子『リンゴの唄』を挿入歌とした映画『そよかぜ』の脚本家として知られる[4][5][6]。台湾に招かれて監督した1958年(昭和33年)に公開された『阿蘭』は同地で大ヒットを記録した[9][10]。長男・次男はのちに長じてフォークデュオ「ブレッド&バター」を結成した[11]。 人物・来歴松竹大船の時代1912年(明治45年)2月12日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2]。 日本美術学校図案科(現在の日本美術専門学校デザイン科)を卒業し、松竹大船撮影所に入社する[1][2][12]。当初は美術部に配属されたが、企画部に異動、次いで助監督部に転じた[1][2][12]。同部では、小津安二郎門下の原研吉に師事する[1]。1940年(昭和15年)8月1日に公開された五所平之助監督の『木石』ではサード助監督、同年12月16日に公開された『幸福な家族』ではセカンドであった[6]。第二次世界大戦が始まり、松竹のみならず日本映画全体の製作本数が激減する。1943年(昭和18年)7月11日、満31歳のときに長男・幸矢が生まれる。戦争末期の1945年(昭和20年)6月28日、同じ助監督部の岩間鶴夫と共同で脚本を執筆した映画『ことぶき座』(監督原研吉)が公開され、脚本家としてデビューした[4][5][6]。 戦後間もない同年10月11日、戦時中に執筆していた『百万人の合唱』という題の脚本を改稿・改題し[13]、『そよかぜ』(監督佐々木康)として公開される[3][4][5][6]。同作は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)検閲第1号の映画としても知られるが、並木路子が劇中で歌った『リンゴの唄』のレコードが12万枚(1947年末時点)も売れ、同作とともに大ヒットを生んだ[14]。1947年(昭和22年)1月21日には、新藤兼人・中山隆三と共同で執筆したオリジナル脚本が『仮面の街』(監督原研吉)として公開され、同年11月11日には、中山の脚本を映画化した『乙女の祈り』という短篇映画を監督し、初監督を経験する[4][5][6]。正式に監督昇進したのは1949年(昭和24年)で、ふたたび中山の脚本を得て、清水金一の主演作『シミキンの忍術凸凹道中』を監督、同作は同年5月23日に公開された[1][4][5][6]。同年2月23日には次男・二弓が生まれている。 フリーランス以降その後、同社を退社してフリーランスの監督となる[1]。1954年(昭和29年)10月13日には、産業経済新聞の人気連載絵物語『少年ケニア』を脚色・監督して映画化、大映が配給して公開されている[4][5][6]。1956年(昭和31年)5月11日には、新東宝で37分の中篇映画『肉体の魅惑』を監督、公開されている[4][5][6]。1957年(昭和32年・民國46年)、映画監督の田口哲[15]、撮影技師の宮西四郎[16]、照明技師の法島繁義[17] らとともに、台湾の映画会社・長河有限公司に招かれ、岩沢は小艶秋を主演に『紅塵三女郎』、および游娟を主演に『阿蘭』を監督し、それぞれ、同年8月28日、1958年(昭和33年・民國47年)1月29日に台湾で公開された[8][9][10]。游娟は『紅塵三女郎』にも出演しており、同作が女優デビュー作であり、同2作の成功により、『影劇周報』誌上の読者投票でベストテン入りしている[10]。『阿蘭』に出演した俳優の石軍は、現在の金馬奨の前身である、徵信新聞社主催「第一回台語片電影展覽會」で、最優秀男優賞にノミネートされた[10]。『阿蘭』は同年の台湾において第10位の興行成績を上げた[10]。田口はこのとき『太太我錯了』を撮り、同年5月13日に公開されている[9]。『日本電影在臺灣』によれば、田口の『太太我錯了』は『麻薬と愛情』、岩沢の『紅塵三女郎』は『明日売られた女』という題で日本でも正式に公開されたとしている[9]。 1959年(昭和34年)には、古巣の松竹が製作した連続テレビ映画『花の家族』(フジテレビジョン)で監督として起用され、同年3月2日から1クールの放映が開始している[7]。『日本映画監督全集』の岩沢の項には、フリーランスの時期、読売映画社(現在の読売映像)や太平洋テレビジョンで作品を発表していた旨の記述がみられる[1]。太平洋テレビジョンは1964年(昭和39年)2月、同社代表の清水昭が法人税法違反で告発される、いわゆる「太平洋テレビ事件」(1974年4月13日無罪確定)が起きているが[18][19]、岩沢が活動したのがどの時期であるかは不明である。同年8月17日には、祖父江羊己が設立した中映プロダクションの製作第1作『行為の果て』(監督辰巳敏輝)に脚本を提供している[4][6]。同作の監督名は同時代資料である『映画年鑑 1966』には、辰巳敏輝ではなく小林悟と記されているが[20]、出演者名も他の資料と異なる[4][6]。1968年(昭和43年)には『ケロヨンの大自動車レース』を監督し、公開されている[21]。記録の上では、同作が劇場用映画に関わった最後の作品であるが[3][4][5][6][7][21]、その後の詳細は不明である。 1970年(昭和45年)10月3日、心不全のため死去した[1][2]。満58歳没。亡くなる1年前の1969年(昭和44年)9月25日、子息たちが結成したフォークデュオ、ブレッド&バターがシングルレコード『傷だらけの軽井沢』(作詞橋本淳、作編曲筒美京平)を発表して、デビューしている[11][22]。 フィルモグラフィクレジットは「監督」を始めすべて明記した[1][3][4][5][6][7][8]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[3]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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