岡定俊岡 定俊(おか さだとし、永禄10年(1567年)-元和8年(1622年))は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。左内(さない)の通称で知られ、蒲生家、上杉家それぞれに重臣として仕えた。 生涯父は若狭太良庄城(福井県小浜市)の城主、岡和泉守盛俊という。岡越後守と称し、諱は定俊。岡野左内、岡野定政、岡野定俊と書かれることもある。後に編纂された『 元亀4年(1573年)に織田信長が若狭を制圧した後、領主となった丹羽長秀に仕えずに若狭を離れ、蒲生家に仕官したものと考えられる。『武徳編年集成』によれば天正12年(1584年)秋から半年の間、蒲生氏郷は木造具政の篭城する戸木城を包囲した。この戦いで18歳の岡源八なる者が、敵将の畑作兵衛重正を討ち取ったという。この源八が左内であるとされる。 合戦で多くの功績を挙げ、氏郷が会津92万石を領してからは1万石の知行を与えられた。氏郷没後の慶長3年(1598年)、蒲生騒動で宇都宮18万石に減封となったが、ここで蒲生家に替わり会津を領地とした上杉家に仕え直した。上杉家家老の直江兼続から4200石を与えられている。上杉家と伊達家が争った慶長5年(1600年)の松川合戦では、伊達政宗を散々に打ち破る戦功を挙げたという。『武辺咄聞書』によれば、南蛮の伴天連より贈られた「角栄螺の甲」と「鳩胸鴟口の具足」を身につけていたとされ、これは西洋甲冑(南蛮胴)ではないかといわれている。上杉氏が120万石から米沢30万石に転封されると、再び会津60万石の領主となった蒲生秀行に仕え、慶長14年(1611年)頃に1万石の猪苗代城城代に任ぜられ、越後守と称した(『氏郷記』)。熱心なキリシタンでもあり、私財で教会や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。 しかし元和8年(1622年)頃、キリシタンへの弾圧が強まると、これを危惧した甥の岡清長(左衛門佐)が左内とその子に迫って棄教させたという[1]。間もなく左内は死去し[注釈 1]、清長が猪苗代城代に任じられた[2]。蒲生家が伊予松山藩に移された後、清長は仕置(家老)に任じられたが、蒲生郷喜を排除しようとして御家騒動を起こし、追放処分になったという(寛永蒲生騒動)[3]。 子孫は後に蒲生家が改易されてからは、黒田家や津軽家に仕官した。 いくつかの逸話が知られているが、利殖に巧みであり、部屋中に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝するのを楽しみとしたという。この話はよく知られ、『雨月物語』中の一篇「貧福論」にも採用されている。単なる守銭奴ではなく、慶長5年(1600年)の会津征伐では上杉家諸将が急な戦費調達に苦しむ中、こういう時にこそ惜しみなく使わねばならないと、財貨を主君の景勝に献上し、同僚に貸し与えた。上杉家の転封に当たっては、借財の証文を全て焼き払って退散し、直江兼続からもその人物を惜しまれたという。 脚注注釈
出典
参考文献
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