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山野井妙子
山野井 妙子
(やまのい たえこ、
1956年
- )は、日本の
登山家
。旧姓は長尾妙子。夫は同じく登山家である
山野井泰史
。
静岡県
伊東市
在住
[
1
]
。
登山歴
1982年
、
笠松美和子
と共に、
グランドジョラス
北壁ウォーカー稜を、女性としては冬季初登攀。
1991年
7月30日 東京都岳連隊(
川嶋保幸
隊長)として
ブロードピーク
に無酸素登頂。チームメンバーは
小西浩文
、山野井泰史ら7名。
10月7日、ベルニナ山岳会隊の
石坂工
と共に、
ヒマラヤ
の
マカルー
に無酸素登頂に成功するも、下山中に嵐に巻き込まれたため、8100m地点で二日間の
露営
を余儀なくされる。石坂隊員が凍死。山野井は命は助かったが、重度の
凍傷
によって、手の指を第二関節から先の10本全てと、足の指8本の切断の重傷を負う。
1993年
7月31日
ガッシャーブルムII峰
に無酸素登頂。チームメンバーは小西浩文、山野井泰史、
戸高雅史
。
1994年
9月4日
遠藤由加
とのコンビで
チョ・オユー
に遠征。ヒマラヤ屈指の難ルートで知られる南西壁をアルパインスタイルで登頂。直前に別ルートで単独登頂した山野井泰史に続き南西壁の第三登(スイス・ポーランドルートの第二登)を果たす。
2002年
、夫の泰史と共に
ヒマラヤ
の
ギャチュン・カン
北壁で雪崩に遭う。この時に二人とも重度の凍傷になり、妙子はさらに指を深く切断する重症、泰史は両手の薬指と小指、右足の全ての指を切断する重傷を負う。
脚注
[
脚注の使い方
]
^
“
奥多摩生活28年
”. 山野井通信.
2020年12月18日
閲覧。
参考文献
『白夜の大岩壁に挑む―クライマー山野井夫妻』2008年
日本放送出版協会
ISBN 978-4-14-081271-6
『凍』
沢木耕太郎
2008年
新潮社
978-4-10-123517-2
『ポーカー・フェース』
沢木耕太郎
2011年
新潮社
ISBN 978-4-10-327515-2
典拠管理データベース
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