山田穣 (貴族院議員)山田 穣(やまだ ゆたか[1] / みのる[2]、1842年(天保13年7月[2][3])- 1892年(明治25年)5月6日[2])は、明治期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・蒲、幼名・幸輔[1]。 経歴越前国今立郡東庄境村(福井県今立郡南中山村、粟田部町、今立町を経て現越前市)で素封家・蒲家に生まれ、文久2年(1862年)越前国坂井郡一本田村(坂井郡丸岡町を経て現坂井市)の同国屈指の豪農・山田穆斎の養子となる[1][3]。 明治5年(1872年)足羽県坂井郡副長に就任し、敦賀県第57大区区長、第15大区副区長兼学区取締を務めた[1][3]。1875年(明治8年)地租改正の総代人となりその事務に従事した[3]。 1880年(明治13年)石川県会議員に当選し、福井置県後は福井県会議員に選出され同議長、同常置委員も務めた[1][2][3]。1884年(明治17年)八ツ口村外12ヵ村戸長に就任し[1]、高椋村会議員も務めた[2]。1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ[4]、在任中に死去した[1][2][5]。 親族脚注参考文献
|