山田次朗吉
山田 次朗吉(やまだ じろきち、1863年10月23日〈文久3年9月11日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月9日)は、日本の剣術家(直心影流第15代)。号は一徳斎。自流の振興のみならず、諸学校において剣道師範を務め、剣道の研究・著述活動を行い『日本剣道史』等の名著を残した。 生涯上総国望陀郡下郡村(後の千葉県君津郡富岡村、現・木更津市)に、名主与吉の長男として誕生。少年期は体力が低く、虚弱であった。 1884年、富岡村に武道場が完成する。この際村を訪れた榊原鍵吉に会った山田は剣の道を修めることを決意する。一族の反対を押し切り無断で上京し、榊原の道場に弟子入りする。榊原に入門した後は、その稽古と自身の努力によって、別人に見違えるほどの体格と豪力を備えるにいたった。「榊原の薪割り剣術」といわれる強烈な打ち込みに耐えるため、頭を柱に打ち付けて鍛錬し、額は甲羅のように硬く盛り上がった。 榊原の道場は竹刀稽古主体で形稽古は行わなかったが、山田は形の修得も志し、師の了解を得て、同じ直心影流の山田八郎に学んでいる。当時の剣術界では既に形派と竹刀派の対立が見られたが、山田は形と竹刀打ちの関係を、書道の楷書・行書・草書になぞらえ、両者は相反するものでなく、どちらも修めるべきとの考えを抱いていた。 1894年元旦の日、榊原より免許皆伝の目録を受け、直心影流第15代と、道場を継承する。9月に死去した榊原の家族の面倒をみる。また榊原の後任として10月1日、北白川宮能久親王・輝久王の剣術師範に就く。翌1895年、前年における師・榊原の死去に続き、父も世を去る。これを機に郷里から家財・土地一切を払って本拠を東京へ移した。1896年、親王の薨去により、宮家の剣術師範を辞する。 1901年5月、東京高等商業学校鍛錬部(剣道部)の師範に就任。 1904年、市区改正により、道場を本郷区竹町に移すと同時に、「百錬館」と名付ける。山田は大日本武徳会からの入会勧誘を断り、競技的剣道には参加せず、直心影流に専心した。 主な弟子に加藤完治、大森曹玄などがいる。加藤は東京帝国大学農科大学からの教え子であり、直心影流の基本の形である法定を、自身が創立した日本農業実践学園で生徒に稽古させた。大森は臨済宗僧侶としての活動の傍ら、直心影流の指導を行った。 逸話
諸学校での指導
著書
山田を題材にした小説など
参考文献
関連項目
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