山田文七
歴史山田文七家は美濃路の稲葉宿にある。稲葉宿で名跡となっている家には、山田市三郎家、山田文七家、山田藤吉家があり、明治時代から昭和時代まで当主は代々名跡を襲名した[1][2]。山田文七家のはす向かいには山田市三郎家があり、江戸時代の山田市三郎家は尾張藩の為替御用達(大名貸)を勤めていた[3][4]。 6代目山田文七明治期の山田文七は、株式会社稲沢銀行(→東海銀行→三菱UFJ銀行)、稲沢電気株式会社(後の稲沢電灯株式会社→東邦電力→中部電力)、稲沢織布の創業者に名を連ねた[5]。山田文七家は1881年(明治14年)に建てられたとされ、屋根瓦には「山文」の屋号が刻まれている[6]。 7代目山田文七1897年(明治30年)11月20日、岐阜県稲葉郡北長森村水海道1554(現・岐阜市水海道)に、後の7代目山田文七が生まれた[7]。岐阜市立岐阜商業学校を卒業後、22歳の時に6代目山田文七の婿養子となり、山田文七邸に開設された村瀬銀行の幹部を務めると、1940年(昭和15年)8月には稲沢町会議員に就任した[7]。 1947年(昭和22年)4月5日の第1回統一地方選挙において、7代目山田文七は稲沢町長に就任した[8]。1947年(昭和22年)12月には稲沢町に診療所を開設し、1948年(昭和23年)8月25日には稲沢町国民健康組合稲沢病院(現・稲沢市民病院)を開設した[7]。1949年(昭和24年)2月22日、病気のために稲沢町長を退任した[7]。1959年(昭和34年)9月14日に61歳で死去した[7]。墓所は宝光寺[7]。
脚注
参考文献
外部リンク
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