山田敬蔵
山田 敬蔵(やまだ けいぞう、1927年(昭和2年)11月30日 - 2020年(令和2年)4月2日[2])は、日本のマラソン選手。ヘルシンキオリンピック男子マラソン日本代表。現役時代の所属は同和鉱業花岡鉱業所。 経歴・人物秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)出身。15歳の時に満蒙開拓青少年義勇軍に志願して中国大陸・満洲国へ渡った経歴を持つ[3]。満洲時代に2,000mや10,000mを走って自信をつけたことを語っている[3]。 第二次世界大戦終了後に満洲から引き揚げ、秋田へ帰郷してから本格的に陸上競技に取り組むようになる[3]。1949年の第4回国民体育大会(東京都)に秋田県代表として一般男子マラソンに出場し、この時に初めて42.195 kmのフルマラソンを走った[3]。 1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場し、25位。 1953年4月20日、ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している)[4]。1954年の大映映画『心臓破りの丘』(監督:木村恵吾、脚本:須崎勝弥、主演は根上淳で役名は「上田栄三」)は、山田をモデルとしたフィクション作品である[5]。 ボストンマラソンには1953年、1957年、1975年、1976年、1995年からは毎年出場しており、1998年から2001年は70歳以上の部を4連覇している。2003年にはボストンマラソン優勝50年を記念して招待選手として出場している。また、優勝年の1953年にちなみ、ゼッケン番号1953は永久欠番となっており、出場時には山田のみがこの番号を付けることが許されている。2007年大会も4時間24分07秒のタイムで完走している。 1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者である。2007年の秋田わか杉国体でも炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。晩年まで各地のマラソン大会に招待選手として参加しており、その健脚を披露していた。 2009年7月、81歳でフルマラソンから引退を表明した。 故郷である秋田県大館市の名誉市民であり、大館市では、山田の功績を讃えて毎年4月29日に山田記念ロードレース大会を実施している[6]。 脚註
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