山田去暦山田 去暦(やまだ きょれき/これき、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。 生涯父は徳川家康が幼少の頃に手習いの師を務めた山田宗純(孫右衛門、弥右衛門[1])。去暦は宗純の三男で、本能寺の変で信長が歿して後、石田三成に仕え近江国に知行300石を領して彦根に住した。兄は徳島藩家老を務めた山田宗重[2]。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると、石田方の武将として出陣、石田方の本隊が関ヶ原へ移動後は、美濃国大垣城の守備をし田中吉政と戦ったと『おあん物語』に書かれてるが、田中吉政は大垣城を攻めていないことから実際は佐和山城にいたのではないかという説もある[3]。しかし、関ヶ原の本戦で石田方の敗北が濃厚となると徳川方に攻囲され籠城戦となる。城内には、去暦の妻、息子2人[4]、娘らがいた。落城間近となった籠城中の去暦の家族の元に、徳川方の武将である田中吉政の配下の者より「愈々明日には落城すると思うが山田去暦殿の父は、かつて家康公の手習い師匠であったので逃げるなら見逃そう」という矢文が届く。その誘いに乗って夜中に城壁から梯子を下ろし、去暦と家族たちは盥を舟にして濠を渡り城を脱出した。城を出て逃げる途中、妻が産気づいて女児を出産した。 その後、山内一豊の家臣となっていた近江出身の親族雨森氏康(九太夫)を頼って、1601年(慶長6年)に土佐国へ来住。去暦の嫡子・山田助丞は馬廻役(上士)として一豊に仕えた。この一部始終は『おあん物語』として語られて著名である。 系図本姓は橘氏で、遠祖は左大臣橘諸兄の子孫・楠木正成と言われ、家紋は「丸に橘」、また「菊水」を用いた[5]。兄・山田宗重は阿波徳島藩に仕え家老となる。去暦の嫡男・山田助丞は土佐藩に仕えた。子孫には山田平左衛門がいる。
(参考文献)『信長公記』、『御侍中先祖書系圖牒』、『鷲敷町史』 家族
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