山汐丸
山汐丸(やましおまる)は、日本の特2TL型戦時標準船[4]。護衛空母兼用仕様のタンカーで、就役後は日本陸軍の指揮下で運用される予定であった[5]。 船歴「山汐丸」は、山下汽船の発注により、1944年(昭和19年)9月11日に三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された。日本陸軍により特2TL型としての設計変更が指示されたため、同型姉妹船(千種丸)よりも優先的に工事が進められた。同年11月14日進水、1945年(昭和20年)1月25日に海上公試[6]、1月27日に竣工した。 船型は全通飛行甲板を張って、船橋構造物を飛行甲板下に収めた平甲板型(フラッシュデッキ型)の航空母艦である[7]。搭載機数は6機で、同時期に日本陸軍が整備した空母型の陸軍特種船である「あきつ丸」「熊野丸」よりも2機少ない[3]。陸軍機の中でSTOL性能に優れた三式指揮連絡機を対潜哨戒機として運用する予定であり、海上公試に続いて発着試験が実施されている[6]。航空機用のガソリンとして、ドラム缶40本を搭載予定であった[1]。 武装も対潜水艦戦闘を重視したもので、九三式水中聴音機、逆探、音響測深儀などを備えている[1]。対潜迫撃砲として二式十二糎迫撃砲を船首に2門搭載するためか、海軍の特TL船「しまね丸」よりも飛行甲板が短い事が外見上の特徴である[8]。 陸軍指揮下で船団護衛艦兼用のタンカーとして運用予定であったが[9]、形式上は民間船で船主は山下汽船のままであった。竣工したものの、戦況の悪化からすでに南方航路は著しく危険で本来のタンカーとしては使用の見込みが無いため、就役しないまま石炭焚きの貨物船への改造が決まった[7]。 改造のため三菱重工横浜船渠において係留待機中、1945年(昭和20年)2月16日、ジャンボリー作戦で来攻した第58任務部隊の艦上機による空襲で至近弾を受けて損傷する。翌17日も続いた空襲で、250kg爆弾1発とロケット弾多数を受けて飛行甲板が大破、浸水もあって着底した[6]。直撃弾で艦尾が破壊され、飛行甲板は上方にめくれあがっている[1]。 終戦後はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-Y034およびSCAJAP-X071の重複する管理番号を与えられたが[2]、船として動くことはついになかった。1946年(昭和21年)3月6日には、建造途上で工事が中止されたまま放置され、港内を漂流していた標的艦「大指」が、着底状態の「山汐丸」と衝突する事故を起こしている[7]。「大指」はこの衝突により浸水着底した[10]。 7月から解体が進められたが、解体中に船首が折れて沈没[6]。費用的に引揚げは困難であったため、残骸を岸壁の一部として再利用することになった。上部構造物を取り除かれた船体は、横浜船渠の北部にある第7岸壁脇に配置され、土砂を詰めて擱座状態で固定された。通称「山汐岸壁」と呼ばれ、1956年(昭和31年)に建造船大型化に対応した造船所拡張に伴い撤去されるまで、艤装作業用に使われた。なお、2008年に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、本船の錨が発見され、同ビルの脇の広場に展示されている。 同型船同型船として日本郵船所属の「千種丸」が三菱重工横浜船渠で建造中であり、1944年12月に進水したものの、戦局悪化のため工事中止となった[9]。係留中に空襲を受け大破。終戦後に再生工事を受けて、1949年(昭和24年)にタンカーとして就役、大洋漁業により運用されたのち、1963年(昭和38年)に佐世保にて解体されている[11]。 また、史料によっては岡田商船所属の「瑞雲丸」が特2TL型の3番船として改装される予定であったとするものもある。瑞雲丸は戦後1964年(昭和39年)まで運用され、大阪で解体されている[12][11]。 脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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