山村蘇門
山村 蘇門(やまむら そもん)、蘇門は号であり、本名は山村 良由 (やまむら たかよし)である。尾張藩の木曾代官九代。隠居後は尾張藩の年寄役(家老職)。漢詩人としても著名[2]である。 生涯山村甚兵衛家は関ヶ原の戦いでの功により、当初は江戸幕府の旗本となったが、元和元年(1615年)以降は尾張藩の附属とされた。 山村家は尾張藩の木曽代官の仕事と共に、幕府から預かった福島関所を守る特別な職務を与えられ、尾張藩の重臣(大寄合)であると同時に幕臣(江戸城柳間詰)としての身分も合わせもつ特別な家柄であった。蘇門(良由)の頃の山村甚兵衛家の知行所は、美濃国の恵那郡・土岐郡・可児郡の内で中山道沿いの村々の5,700石であった。 寛保2年(1742年)3月6日、山村良啓の次男として生まれた。 幼い頃から読書を好み、10歳の頃には昼夜を問わず読書にふけったので、侍医が心配して父・良啓に告げてやめさせようとしたが、返ってこれを悲しみ、食事をとろうとしなかったので、侍医も驚いて好きなようにさせたという。 宝暦の初年、良由(蘇門)は、山村甚兵衛家の侍医で本草学者であった三村道益[3]に学問の手ほどきを受けた。[4]、 宝暦11年(1761年)、将軍代替わりの挨拶のため、父に従って江戸へ参府し、将軍・徳川家治に御目見えした。 同年の江戸滞在中に、大内熊耳に師事した[5]。 在府の諸名家と交流を約して木曽へ帰り、その後は疑問の点があれば書き留めておき、書状をもって教えを受けた。 明和3年(1766年)、京都の江村北海に入門した。前年には、蘇門の片腕となって仕えることとなる石作貞一郎(石作駒石・いしづくりくせき)が伊勢の学者の南宮大湫[6]に教えを受け、大湫と同門であった細井平洲にも教えを受けた。 天明元年(1781年)10月、家督を嗣いで山村甚兵衛を襲名し、木曾代官の九代となった[7]。 当時、財政が困窮していたので、節約を励行し、名古屋屋敷の留守居役であった石作貞一郎(駒石)を勘定役に抜擢して整理を託した。 凶作が続いたこの時期、美濃や松本から木曽谷へ米を入れるとともに、産業の振興を図り、財政を改善した[8]。 山村家は深刻な財政難に陥っていたが、率先して質素倹約に努め、幕府に掛け合って木曽領内に運び込まれる米を確保し、石作貞一郎(駒石)ら有能な家臣を登用して町人の協力を取付け、財政再建に大きな成果をあげた。 天明7年(1787年)は大規模な飢饉となり、全国では餓死者が多数出ていた。蘇門は自ら領内の各村を巡視して金穀を給し、医薬を給したため、木曽では多くの人々が餓死を免れた。この業績は中山道を通行した幕府老中の松平定信が知って驚き、良由(蘇門)を幕府の老中に抜擢しようとしたところ、そのことを、尾張藩主の徳川宗睦が知るところとなり、 同年10月、良由と良喬の父子は尾張藩から召し出され、12月に名古屋城へ出仕し、思召を以て、家督を甥の良喬に譲り、良由(蘇門)を尾張藩の年寄役(家老職)に抜擢され、知行3,000石を下附された。 寛政2年(1790年)、江戸定府詰中には、85人扶持を給された。 寛政10年(1798年)に病により隠居を願い出たため、尾張藩主の徳川宗睦はこれを惜しみ、家老の成瀬正典と共に止めようとしたが、良由は「人の止むる是我退くべきの秋也」と伝えた。 尾張藩の年寄役を退いた後は、隠居扶持50人を給せられ、江戸の芝にあった山村家の屋敷に居住していたが、寛政12年(1800年)、芝の屋敷が火事で焼失したため、隅田川沿いの大川橋南控屋敷に移った。 隠居した後は細井平洲と交わり、中山後凋軒から長沼流の兵法を学んだ。古賀精里、神保蘭室、樺島石梁といった全国の学者と交流を深める一方、木曽義仲を顕彰する「木曽宣公旧里碑」を建立するなど文化事業に力を入れた。著作に『清音楼詩鈔』(二巻)、『清音楼集』(五巻)、『忘形集』などがある。 多能で、弓・馬・刀・槍から、笙・箏・書・画の技に及んで、各々は絶妙に及んでいた。 晩年は古賀精里、秦滄浪、立原翠軒、樺島石梁、菅茶山との文学の交流や、詩作をして過ごした。 文政5年1822年秋、侍臣に対して「速に装束を用意せよ、冬春の交 恐らくは病まん、墳墓の地で終りたい」と語った。 侍臣は、この言葉を信じられず、「君常に木曾の寒気を怖れていた。今霜威強からんとしている。来春を待って帰らるるがよかろうか」と提案した。 しかし良由(蘇門)は、その言葉を聞きいれずに木曾へ帰った。 文政6年1月16日〈1823年2月26日〉、木曽福島の山村邸において82歳で没し、興禅寺に葬られた。戒名は「徳光院殿前勢州刺史照山宗遵大居士」。 脚注
参考文献
外部リンク
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