山川幸雄
山川 幸雄(やまかわ ゆきお、慶応4年1月28日(1868年2月21日) - 1922年(大正11年)5月26日)は戦前日本のドイツ文学者。ドイツに15年間留学して法律を学び、帰国後第三高等学校、第一高等学校でドイツ語等を教えた。 妻は歌人山川柳子で、子に舞台演出家山川幸世、歌人山川弥千枝がいる。 生涯生い立ち慶応4年(1868年)1月28日土佐国高知水通町に土佐藩医山川幸喜の長男として生まれた[1]。当初は医師を志し、1883年(明治16年)本郷区台町の私立独逸学校に入学し、ドイツ語・数学を学んだ[1]。 ドイツ留学1885年(明治18年)10月ドイツに自費留学し、ブランデンブルク州ポツダムギムナジウム教授オットー・フリードリヒ方に寄宿してドイツ語、1886年(明治19年)3月からはラテン語を学んだ[1]。1887年(明治20年)フハルヲ・ウィザムスキーに歴史・地理・数学、イギリス人ロジェーに英語、高等女子校長シュミット・フランス人ピグーにフランス語、高等学校教師シュロスマンにギリシャ語を学んだ[1]。 1888年(明治21年)4月ポツダム市立中学校に入学、1889年(明治22年)4月ベルリン大学法学部に入学し、1893年(明治26年)4月からローゼンベルク博士に公法を学び、1895年(明治28年)からベルリン市区裁判所判事ビックに就いて商法・民法を研修した[1]。 1898年(明治31年)夏ゲッティンゲン大学法学部に移籍し、カール・ルートヴィヒ・フォン・バールの指導を受け、1899年(明治32年)「共同正犯の理論によせて、独逸刑法第四十七条の解釈に対する一寄与」[2]を提出、1900年(明治33年)3月8日法学全科の口頭試験に合格し、両法学博士を授与され、4月17日ジェノヴァからザクセン号で帰国した[1]。10月20日ドイツ東洋文化研究協会に入会した[1]。 教職1902年(明治35年)8月26日京都市第三高等学校教授となり、ドイツ語・法学通論・ラテン語を担当した[1]。当初大学予科一部三年甲級長、1903年(明治36年)一部三年乙級長[1]。 1908年(明治41年)1月19日第一高等学校教授となり、日本大学・法政大学でもドイツ語・法律を教えた[1]。晩年にはローマ法の研究に取り掛かったが、アルコールと極度の勉強のため腸を患い、1913年(大正2年)9月休校、12月25日退官した[1]。1914年(大正3年)1月20日正五位[1]。 1922年(大正11年)5月26日午前9時15分[1]大塚の自宅で死去し[3]、29日谷中斎場で神式葬儀が行われ、谷中霊園甲号13側に葬られた[1]。神道を信仰したため、戒名は受けなかった[1]。 著書
家族
脚注参考文献 |
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