山崎義俊
山崎 義俊(やまざき よしとし)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領5代領主。 生涯元文5年(1740年)7月11日 、豊後国森藩5代藩主久留島光通の六男として江戸にて生まれる。母は光通の側室高野氏。初名は久留島通有[1]。実兄に豊後国森藩6代藩主久留島通祐、実弟に豊後国森藩7代藩主久留島通同、義兄に摂津国麻田藩8代藩主青木一新、和泉国伯太藩3代藩主渡辺信綱らがいる。正室は筑前国秋月藩5代藩主黒田長邦の娘・此子。この婚姻関係により筑前国秋月藩6代藩主黒田長恵、出雲国広瀬藩6代藩主松平近貞、上総飯野藩7代藩主保科正率らと義兄弟の関係となった。尚、久留島家と山崎家は遠縁に当たる。久留島光通の義父・森藩4代藩主久留島通政の継室(土佐国高知藩4代藩主山内豊昌の養女)の義姉が讃岐国丸亀藩2代藩主京極高豊の正室となっている。この京極高豊の四男が讃岐国多度津藩初代藩主京極高通であり、その正室は備中国成羽領2代領主山崎義方の娘である。 宝暦8年(1758年)12月3日、父光通の義妹(従妹)の夫で備中国成羽領3代領主山崎尭治の嫡男山崎信盛が急逝したため、末期養子として成羽領5,000石の家督を相続した。家督相続の際に改名し山崎義俊となった。宝暦9年(1759年)3月15日、家督相続許可の御礼として9代将軍徳川家重に拝謁している。同年6月12日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。領主在任中は養父信盛と同様に罪人預かりなどを命じられている。安永7年(1778年)12月12日、幕府に隠居を願い出て許されたため、家督である成羽領5,000石を長男義孝に譲り隠居した。ただ長男義孝は翌年早世し、さらにその遺跡を継いだ次男義苗、四男で筑前国秋月藩主の黒田長堅も相次いで早世するなど、息子達に次々先立たれ不幸が続いた。最終的に三男義徳が成羽領5,000石の家督を継承した。享和元年(1801年)7月8日、江戸にて死去。享年62歳[2]。 系譜
脚注
参考文献 |