山室静山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 来歴・人物教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。1939年、評論集『現在の文学の立場』を上梓する。1939年、阿部次郎を慕って東北帝国大学法文学部(現在の文学部)美学科に入学し、1941年に繰り上げ卒業[1]となった。 1932年、25歳の時、プロレタリア科学研究所に属し、本多秋五、平野謙らの知遇を得るとともに、同年代の文筆家と交流を深める。共産主義に傾倒した結果、1933年に逮捕拘留され、その後も2度留置されるなど弾圧を受ける。1936年、生涯の伴侶となる美喜と結婚する[2]。 1946年に、埴谷雄高、小田切秀雄、本多秋五らとともに雑誌『近代文学』を創刊する。また堀辰雄らと共に文芸雑誌『高原』の創刊にかかわる。この時期以降、ヤコブセン、ノヴァーリスの翻訳や各種評論などを精力的に執筆する。文学研究者としての刊行本も、『島崎藤村読本』『評伝森鴎外』『世界文学小史』『世界神話』『アンデルセン童話玉選』など多数に及ぶ。 1958年に日本女子大学講師となり、のち教授に就いた。1961年、オランダで開催された国際比較文学会に日本代表として出席する。またタゴール生誕百年記念論文集の編纂にも携わる。1966年、立原えりかと児童文学の同人誌『海賊』を創刊する。1967年、詩集『時間の外で』を上梓する。1968年、『トーベ・ヤンソン全集』の出版に際し、それまで翻訳した『ムーミン』シリーズに加え『ムーミン谷の仲間たち』を新たに訳出する。1972年に日本女子大学教授を辞し、非常勤講師を4年続けた。この年『山室静著作集』の刊行が始まり、翌年に平林たい子文学賞を受賞する。 1975年には、青年期に教師をしていた旧野沢高等女学校(現在の長野県野沢南高等学校)生徒の、戦時中名古屋での勤労動員の記録『十六歳の兵器工場』出版のため尽力する。同年『アンデルセンの生涯』で毎日出版文化賞を受賞する。1982年に自宅から失火、蔵書5000冊、原稿2000枚などが焼失し、一時は北欧神話研究から断念しようとするが、埴谷雄高や本多秋五らが中心になって「山室夫妻を励ます会」主催するなど、周囲の励ましを受けて復帰する。佐久文化会議議長を務め、長野県を拠点として、佐久文化賞、農民文学賞選考委員を務める。1986年、随筆集『老いの気晴らし』を刊行する。1992年には神奈川文化賞を受賞、『山室静自選著作集』(全8巻)の出版が始まる。白内障の悪化により、途中からは妻の美喜が校正を行った。2000年、老衰のため死去した。93歳没[3]。戒名は大智院文誉澹静徳胎居士[4]。 教師生活では、東北在住時代にも教員を務めたこともあり、当時の教え子の話によると「コンニャク先生」というあだ名などでも呼ばれていたという。 業績北欧文学・北欧神話についての数々の著作や、ハンス・クリスチャン・アンデルセン、アストリッド・リンドグレーン、トーベ・ヤンソンなど北欧の児童文学作家の翻訳書を多く残した。また、アイスランドを訪問して同国のノーベル賞作家ハルドル・ラクスネスと会見したこともあり、その作品の翻訳も試みた。エッダやサガなどのアイスランド古典文学の日本への紹介の先駆者である。さらに北欧だけでなく、ライナー・チムニクなど当時・日本で知られていなかったドイツの童話作家の作品を翻訳し、日本に紹介した。そのほか、森鷗外、島崎藤村、宮沢賢治、タゴールの研究でも知られる。1972年版「世界大百科事典」の関連項目も執筆している。また教育者としては、文化学院、日本女子大学などで教鞭をとった。 著書
編著
翻訳
イエンス・ペーター・ヤコブセン
ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ
アーダルベルト・シュティフターラビンドラナート・タゴールヘンリック・イプセン
アンデルセン
ヨーン・スウェンソン
アストリッド・リンドグレーン
トーベ・ヤンソン
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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