山口玄洞
山口 玄洞(やまぐち げんどう、文久3年10月10日(1863年11月20日) - 1937年(昭和12年)1月10日)は、日本の実業家、帝国議会議員。広島県尾道市出身。大阪府平民[3]。大阪府多額納税者[3]。(株)山口玄創業者[4]。尾道市名誉市民。 来歴文久3年(1863年)、備後国尾道久保町(現広島県尾道市久保2丁目)で医業を営んでいた山口寿安の長男として生まれる[1]。幼名は謙一郎[1][4]。山口家は尾道に土着して以降代々医業と副業で醤油販売業を行なっていた[1]。 明治4年(1871年)9歳の時に父により愛媛岩城島にあった漢学塾「知新館」に学びに出されるも、在塾中の明治10年(1877年)15歳の時に父が急死したため退塾し尾道へ戻る[1][4]。そこからは学業を諦め、家計を支えるため尾道で行商を始めることになる[1][4]。明治11年(1878年)、大阪心斎橋筋にあった洋反物店「土居善」へ丁稚奉公に出る[1][4]。呼び名は清助[1]。その仕事ぶりから店主に信頼を受けたものの、明治14年(1881年)土居善は倒産し閉店することになった[4][5]。そこで取引先との縁で一旦鳥取を拠点に商いを始める[5]。 明治15年(1882年)、大阪伏見町(現中央区)で洋反物仲買「山口商店」を独立開業する[4][5]。次第に経営を軌道に乗せると、尾道から母と弟妹4人を大阪に呼び寄せる[5]。当初は輸入織物のモスリンを扱っていなかったが、苦労と幸運が重なり神戸のイリス商館の輸入モスリンを独占販売できることとなり、更に営業規模を拡大していく[4][6]。日清戦争では軍需品として洋反物は更に売れた[7]。 明治29年(1896年)34歳の時、山口家四代目として正式に家名を継ぐこととなり「玄洞」の名を襲名した[4][7]。 明治37年(1904年)、多額納税者となったことから貴族院多額納税者議員で互選され、同年9月29日に就任し[8]、明治39年(1906年)8月23日[9]に辞任した[7]。 日露戦争以降には国内製織の海外への輸出もするようになると、更に業績を伸ばす[10]。また三十四銀行取締役、大阪織物同業組合初代組長、共同火災監査役、など歴任し、泉尾土地会社・尼崎紡績および大日本紡績(現ユニチカ)・毛斯倫紡績・大阪商事などで重役としても活躍した[7]。大正元年(1912年)、業務拡大に伴い現在の大阪備後町に店舗を新築する[11]。業務拡大したことにより時々不眠症にもなってしまったため、大正6年(1917年)56歳で実業家としては引退し、店を株式会社化し社業を幹部に一任するようになった[4][11]。 引退後は時折助言はするものの社業にタッチすることなく京都の本邸で静養生活に入り、また信仰に没頭し後述のように資産の多くを寄付に使う[4][12]。数寄者としても過ごし表千家後援者[13]としても活躍した。 昭和12年(1937年)死去。墓は大徳寺塔頭龍翔寺と、死の数カ月後に分骨された故郷尾道の西國寺。遺誡は「人間は努力次第で何事も成就しないことはない。怒れる竜の口中の玉でも容易にとることができる」であった。昭和42年(1967年)『尾道市名誉市民条例』が定められた時、尾道市上水道に対する多大な寄与が主な理由で、平山角左衛門、三木半左衛門と共に名誉市民に選ばれた(後に小林和作が加わる)。 栄典寄付玄洞は大阪で財をなしたころから、その多くを関西や尾道の公共事業や慈善事業、寺社に寄付した[4]。大正・昭和における寄付金王とまで言われている[15][16]。記録に残る主なものだけでも147件の寄付・寄進をしている[17]。建設には安井楢次郎技師を顧問に迎え、新築だけでも100件ほどある[16]。 初期は特に教育関係、ついで病院・水道などの社会事業関係、そして災害の義捐関係が目につき、その他軍関係にも僅かながら寄付をしている。その後京都に隠居し、仏教を篤く信仰するようになると、次第に寺社への寄進にのめり込んでいく。ひと度伽藍寄進の評判がたつと、玄洞のもとには伝手を辿って嘆願が殺到した。そこで玄洞は、寄進するにあたってその寺が、由緒正しい寺である事、景勝の地にある事、住職の人品が優れている事、の3つを条件にしたという。景勝地が条件に挙げられているのは、玄洞が大衆を教化する一つの方法として、悪人でも襟を正すような聖地に美しい伽藍を作り境地説法するのが効果的だと考えていたためである。 その金額は、育英・慈善関係で二百数十万、寺社関係では三百万を優に超えることから、総額は五百数十万円にものぼる[18]。玄洞のこうした常軌を逸した寄付をする精神的背景には、『碧巌録』にある「無功徳の精神」があったとも言われる。世間では富豪の道楽と見る向きも少なくなかったが、玄洞はこれを聞くと、「人は脂汗をしぼって資産を作ったが、自分は血の汗をしぼったのであるから、よもや道楽や名利のために寄附することはできない。ただ、信仰の道に入って、寺院の前途を考えるとき、やむにやまれぬ気持ちから寄進するのだ」と語ったという[18]。 以下は主だった寄付を列挙する(単位は円)[19]。
記念碑など
親族脚注
参考資料
関連資料関連項目外部リンク
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