知恩寺
百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)は、京都市左京区田中門前町にある浄土宗の大本山の寺院[1]。かつては知恩寺と呼ばれていたが、現在、宗教法人としての名称を百萬遍知恩寺[2]としている。山号は長徳山。本尊は釈迦如来。京都における浄土宗四ヶ本山のひとつであり、法然上人二十五霊跡第22番札所。「百万遍」は付近の交差点名及び通称地名にもなっている。念仏を称えながら大念珠を繰る「百萬遍大念珠繰り」が有名。 歴史もとは皇円阿闍梨の住房比叡山功徳院の里坊で、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられる。賀茂社(賀茂御祖神社)との関わりが深く、神宮寺として、御所の北、今出川(京都市上京区、現・相国寺付近)にあった。その所在地から、賀茂の河原屋・賀茂の禅坊・賀茂の釈迦堂と呼ばれた。円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川釈迦堂、などとも称された。 法然は度々この地を訪れていたが、法然が賀茂の河原屋に一時住んだのは賀茂の神職から招かれたためといわれる。法然入滅後、弟子の勢観房源智は賀茂の河原屋をついで功徳院神宮堂と改め、法然の御影を安置して法然を勧請開山第一世とした。 源智はここを念仏の道場とし、源智の門流である紫野門徒の拠点として伽藍を整備し、如空のとき功徳院知恩寺と称した。 建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子良忠が鎌倉からやってくると、間もなくして紫野門徒の知恩寺3世信慧は東山の赤築地(あかつじ)において良忠と談義を行った。そこで両流を校合してみたところ、相違するところが全くなく符合したので、以後源智の門流は別流を立てずに鎮西義に合流することとなった(「赤築地の談」)。 これにより、紫野門徒の拠点であった知恩寺と良忠の知恩院は鎮西義の京都での有力な拠点となった。 元弘元年(1331年)第8世善阿空円のとき、京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により空円が念仏百万遍を行い疫病を収めたことから「百万遍」の号が下賜され[1]、弘法大師(空海)筆の「大利剣名号」の軸と五百四十顆の大きな念珠も下賜されている。こうして皇室の篤い帰依を受け、国家安穏を祈願する祈願所となった[1]。弘和2年:永徳2年(1382年)相国寺が建立される際に一条小川に移された(京都市上京区油小路通一条上るに元百万遍町の町名が残る)。 応仁元年(1467年)の応仁の乱で焼失したが、文明11年(1479年)に本堂が再建された。しかし、永正5年(1508年)に大内義興と三好之長の合戦で焼失してしまう。永正16年(1519年)に室町幕府により再建され、翌永正17年(1520年)、細川高国に捕らえられた三好之長が当寺で自刃させられている。 大永3年(1523年)、知恩寺25世慶秀と知恩院25世存牛との間で本寺争いとなったが知恩寺は敗れ、第一の座次を知恩院に譲ることとなった[1]。 天文5年(1536年)、天文法華の乱で焼失する。文禄元年(1592年)には豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通り荒神口上る、現・梨木神社の近く)に移された[要出典]。江戸時代の寛文元年(1661年)に火事で焼失するが、寛文2年(1662年)第39世光譽萬霊上人によって現在地に移転し、2年後の寛文4年(1664年)に本堂の釈迦堂が建てられ再興された[1]。 宝暦6年(1756年)には48世震譽知巖が御影堂を一回り大きくし、総欅造りとして再築した。 なお、当寺は浄土宗の寺院であるが本堂は釈迦堂で本尊は釈迦如来であり、これまで阿弥陀堂はなかった。しかし、文化8年(1811年)になって初めて阿弥陀堂が建立された。 明治時代の神仏分離によって当寺は賀茂御祖神社の神宮寺の立場を離れた。 1995年(平成7年)に主要な建物が京都府指定有形文化財に指定[3]され、2017年(平成29年)にはそれらの建造物9棟(御影堂・釈迦堂・阿弥陀堂・御廟・勢至堂・鎮守堂・鐘楼・惣門・西門)が国の重要文化財に指定された[4][5]。 百萬遍知恩寺はもともとは正式名を知恩寺といっていたが、同じ浄土宗の知恩院や三時知恩寺と間違われることがしばしばあった。そのため、長らく通称として百萬遍知恩寺[1]と呼んでいたのであるが、2019年(令和元年)8月7日に法人の名称変更を京都府によって認められ、「百萬遍知恩寺」が正式な法人名となった。 境内や本堂・庫裡はしばしばフリーマーケットの会場として貸し出されており、特に京都古書研究会主催で開かれる「秋の古本まつり」(期間は概ね10月末から11月3日頃まで)の会場となっていることで知られている。 境内南門から参道を入って正面に御影堂、手前左手に阿弥陀堂、右手に釈迦堂があり、左右には塔頭寺院が並ぶ。
文化財重要文化財
その他
行事
前後の札所所在地〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町103 周辺脚注出典参考
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