尾澤喜雄
尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 1977年9月7日)は、日本の教育者・文学者(俳文学)。岩手大学名誉教授。俳号は白路(はくろ)。旧姓は片瀨(かたせ)。姓の「澤」は旧字体のため、新字体で尾沢 喜雄(おざわ よしお)とも表記される。 東京府立第二高等女学校教諭、埼玉県立久喜高等女学校教諭、長野県篠ノ井高等女学校教諭、長野市立中学校教諭、岩手師範学校教授、岩手大学学芸学部教授、岩手大学教育学部教授などを歴任した。 来歴生い立ち1906年6月、片瀨政十郞の二男として生まれたが[1]、尾澤惠の養子となった[1]。長野県北安曇郡七貴村出身[2][註釈 1]。長野師範学校[2]、旧制の松本高等学校の文科を経て[註釈 2]、東京帝国大学に進学し[1][註釈 3]、文学部の国文学科にて国文学を学んだ[1]。1933年3月、東京帝国大学を卒業した。 1933年4月より、東京府立第二高等女学校の教諭に就任した[註釈 4]。同時に、東京府女子師範学校の教諭も兼任した[註釈 5]。1934年6月、埼玉県立久喜高等女学校に転じ[註釈 6]、教諭に就任した[1]。さらに、故郷である長野県にて長野県篠ノ井高等女学校に転じ[1][註釈 7]、そちらの教諭に就任した[1]。のちに旧制の長野市立中学校に移り[1][註釈 8]、同様に教諭に就任した[1]。 文学者として太平洋戦争のさなか、1943年に岩手県師範学校と岩手県女子師範学校が統合再編され[3]、新たに岩手師範学校が設置された[3][註釈 9]。それに伴い、同年8月に岩手師範学校に転じ[1]、教授に就任した[1][4][5]。太平洋戦争終結後、国立学校設置法により、岩手師範学校は盛岡農林専門学校、盛岡工業専門学校、岩手青年師範学校と統合再編されることになり[6]、1949年に岩手大学が設置された[6]。それに伴い、岩手大学に奉職することになり[7]、長年に渡り教鞭を執った。1950年には教授に補職された[8]。なお、岩手大学設置以降も、岩手師範学校は1951年3月までは並行して存続したため[3]、岩手師範学校の教授にも兼補されている[9]。1972年3月、岩手大学を退官した。 退官に伴い、岩手大学より名誉教授の称号が授与された。その後、1977年9月7日に死去した[10]。 研究専門は文学であり、特に国文学、つまり日本文学に関する分野の研究に従事した。具体的には俳文学について研究しており[1]、江戸時代の俳人である小林一茶の研究で著名である。その研究の成果は学術雑誌などで発表されており、『国文学――解釈と鑑賞』や[11]、『國文學――解釈と教材の研究』をはじめ[12][13][14]、『國語と國文學』など[15][16]、多くの雑誌に論文が掲載された[17][18][19][20][21]。一茶の生涯を5つの時代区分に分けて研究することを提唱し、多くの研究者に受け入れられた。その結果、一茶の研究史においては、尾澤の提唱した時代区分が定着している。そのほか、一茶に関する学術書を上梓するとともに[22]、一茶の著作の校訂を手掛けている[23]。小林計一郎、丸山一彦、宮脇昌三、矢羽勝幸とともに『一茶全集』を編纂し、数年がかりで刊行したが[24][25][26][27][28][29][30][31][32][33]、その功績は高く評価されており、尾澤没後の1980年の芭蕉祭にて文部大臣賞が授与されている。 人物岩手県の小学校や中学校にて、数多くの校歌の作詞や校訂を手掛けている[34][35][36][37]。また、岩波書店においては[1]、国語の教科書の編纂に参画していたことでも知られている[1]。 趣味は園芸[1]、謡曲[1]、俳句[1]、などが挙げられ、「白路」[1]と号していた。 仏教を信仰しており[1]、宗派としては真言宗に属した[1]。 家族・親族妻である尾澤さいとの間に[1]、喜美子、正昭、正俊の2男1女を儲けた[1]。 略歴
受賞歴著作単著
編纂
註釈、校訂
寄稿、分担執筆、等
論文
楽曲
脚注註釈
出典
関連人物関連項目外部リンク |