尹祚乾
尹 祚乾(いん そけん、1887年12月 – 1965年)は、中華民国・満洲国の海軍軍人・実業家。満洲国の江防艦隊司令官・江上軍司令官であるが、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に転じた。 事績幼い頃から学を好み、1903年(光緒29年)に日本へ留学する[5]。東京高等商船学校を経て、海軍砲術学校・海軍水雷学校を卒業した[1][2]。 帰国後の1913年(民国2年)1月31日に海軍少校となる[6]。1922年(民国11年)7月、「利済」艦長となり、以後、「利捷」艦長、「江亭」艦長を歴任している[2]。なお、1927年(民国16年)7月23日に海軍中校の位を授与された[6]。国民政府では張学良率いる東北軍で「江興」艦長となり、ソ連海軍とも交戦したことがある[5]。 満洲国建国後の1932年(大同元年)8月、海軍少将江防艦隊司令官に就任し、1935年(康徳2年)8月、海軍中将に昇進した[1][2]。1939年(康徳6年)2月、陸軍中将江上軍司令官となった[7]。 1941年(民国30年)、南京国民政府(汪兆銘政権)軍事委員会委員[8]・凌霄の推薦で、南京要港海軍司令部司令に任命された。翌1942年(民国31年)、海軍上将に昇進し[5]、1943年(民国32年)10月10日には凌霄と共に陸軍少将も兼ねた[9]。しかし、この頃から軍人間での内部対立が激化したため、1944年(民国33年)3月、尹は軍人を引退し、南京市で内河輪船公司経理となっている[5]。 日本敗北後、尹祚乾は漢奸の名簿にいったんは入れられたが、後になって蔣介石の手配により実際の訴追を免れた模様である[10]。1949年(民国38年)、台湾に逃れ、海軍司令の1人として再起用された。晩年は軍人を引退して実業界に入った[5]。 注
参考文献
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