小梁川氏
小梁川氏(こやながわし)は、日本の氏族のひとつ。陸奥国の大名・伊達氏の庶流である[1]。 概要伊達氏第11代当主伊達持宗の三男・盛宗が、伊達郡小梁川(現:伊達市梁川町字小梁川)に拠って小梁川氏を称した[1]。 『伊達世臣家譜』によれば、盛宗は甥の第13代当主・伊達尚宗が3歳から15歳までの間(1455年 - 1467年)、家中を総攬し百官を総べたとしているが[1]、この時期にはまだ兄の第12代当主・伊達成宗のみならず持宗(1469年没)も健在な時期であることから、この記述には無理がある[2]。 小梁川氏は伊達稙宗・伊達晴宗父子が争った天文の乱において、盛宗長男・親朝の系統が晴宗に、二男・宗朝(日雙斎)の系統が稙宗に与し、家を二つに割って戦っている。天文の乱が晴宗の勝利に終わった後、中野宗時らと共に晴宗方の中核として活躍した親宗(親朝の嫡男)は、加増されて長井郡高畠城主となり、守護不入権を含む様々な特権を獲得し、その子・盛宗(泥蟠斎)は晴宗の三女(天光院)を正室に迎えるなどして、晴宗政権下にあっては強い力を有していたが、永禄13年(1570年)4月に中野宗時が謀反の疑い有りとして伊達輝宗に追討されると、盛宗は逃げ延びる宗時らを故意に見逃したとして処罰された。この時、晴宗代に獲得した守護不入権などを剥奪されたものの、盛宗は伊達政宗の代に至るまで伊達家中で重きをなしている。 天正19年(1591年)、政宗が葛西大崎一揆煽動により岩出山へ減転封され、長井・伊達など旧領を没収されると、盛宗も江刺郡上口内に移った。小梁川氏は江戸時代にはさらに同郡野手崎へと移され、以後、幾多の養子を迎えながら、幕末に至るまで同地を治めた[1]。 最後の野手崎領主であった第16代・盛之が、明治時代になって伊達に復姓し、伊達邦盛に改名している。 庶流塩森氏親宗の二男・宗朝は長井郡塩森(しおのもり、現:東置賜郡高畠町塩森)に拠って塩森氏を称した。 塩森本家は一家の家格に列して栗原郡若柳で238石を知行し、分家も召出の家格を与えられている。 古田氏日雙斎宗朝の家系は宗秀の子・古田宗重の代より古田氏を称した。 古田重直は志田郡松山城主・江刺郡岩谷堂城主などを歴任し、仙台藩草創期には奉行職(他藩の家老に相当)を務め、着坐の家格を与えられた。古田本家は寛文元年(1661年)に重直の孫・共直が跡取り無くして死去し無嗣断絶となったが、寛政4年(1792年)の『伊達世臣家譜』には、分家の古田利延が39石6斗6升を知行し、虎間番士として存続しているとの記述がある。 系譜歴代当主[3]
系図
脚注参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia