小林公太
小林 公太(こばやし こうた、1991年9月1日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。NPBでは育成選手であった。現役引退後はラーメン屋の店主を務めている[1]。 経歴プロ入り前小学生のときは世田谷ドラゴンズで主に捕手で活躍、中学時代は城南ドリームボーイズで主に内野を守った。一時は野球を諦め、騎手を目指し競馬学校へ願書を出したほどだったが、中3の夏に急に身長が伸びたため騎手の道は断念した[3]。 2007年、多摩大聖ヶ丘高に入学後、投手に専念。3年時の夏は、西東京予選1回戦の練馬工業高戦で7回参考記録ながら11奪三振でノーヒットノーランを達成するも、続く2回戦で敗退。 プロ入りとベイスターズ時代2009年9月、横浜ベイスターズの入団テストを受験し、サイドスローからのストレートを武器に合格。10月29日のプロ野球ドラフト会議で、横浜ベイスターズの育成枠2巡目の指名を受け、支度金200万円、年俸240万円(金額は推定)で契約した。 インディアンス傘下時代2012年11月30日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだことを発表した[5][6]。 2013年2月、プエルトリコの教育リーグに参加[7]。6月からはルーキー級アリゾナリーグ・インディアンスでプレーし、5試合の登板で1失点の投球を続けていたが、7月11日に解雇される。 独立リーグ時代インディアンス退団後、独立リーグであるパシフィック・アソシエーションのハワイ・スターズに入団した。同年の内に退団し、そのまま、現役を引退した。 引退後現役引退後、英語を磨くつもりでオーストラリアのシドニーに渡り、和食レストランで1年半勤務する。そこで料理の才能を認められたことからラーメン屋を志す[3]。その後、憧れだった王子神谷「富士丸」の元西新井店店長が経営しているボストンの「Yume Wo Katare Boston」でラーメン作りを修行し[3][8]、2016年11月に文京区で暖簾分けの形でラーメン店「Yume Wo Katare Tokyo」を開業した。 ラーメン屋としては、2019年よりお取り寄せラーメン販売サイト「宅麺.com」の「お取り寄せラーメン オブ・ザ・イヤー」を3連覇している[8]。 2020年に「俺の生きる道」と店名を変更したが、これは妻のつながりから萩本欽一に「自分のストーリーや人生の道が分かる店名がいいんじゃない」と言われたのが由来[8]。 選手としての特徴変則サイドスローから繰り出す、140km/h台後半のストレートとスライダー武器だが制球力に難がある。インディアンスのスカウトからは「腕の角度がセルジオ・ロモに似ている」と評された[9]。 人物アイドル好きで、AKB48、Perfumeなど3つのファンクラブに入会している。一番のお気に入りメンバーは入団当初は板野友美としていたが、その後は前田敦子に推し変した模様で、「(前田が)テレビで『長髪より短髪が好み』と言っていたので」という理由から髪を丸刈りにした[10]。 競艇(ボートレース)も大好きで守屋美穂のファンであり、2024年9月に『ボートの時間!』(サンテレビ)に出演した際には、「守屋に自身のラーメンを食べてもらう」ためわざわざ住之江競艇場まで出張してラーメンを作った[11]。競艇つながりで永島知洋とも古い付き合いがあり、永島を『俺の生きる道』の「オフィシャルサポーター」に起用しているが、永島によれば「自分の知らないところで勝手にサポーターにされ、(永島の写真入りの)幟まで作られた」[11]。 子供のころから横浜ベイスターズの大ファンであり、全身横浜のユニフォームを着て応援しにいったり、1998年優勝当時の下敷きを所持している。 2011年オフにアマゾンに武者修行を表明したが実現しなかった。 2017年8月27日、日本テレビ系『24時間テレビ 40 告白〜勇気を出して伝えよう〜』の番組内で交際中であった片岡に公開プロポーズし、成功。同年12月1日、片岡とともに茨城県稲敷市役所に婚姻届を提出し、受理された[2]。 詳細情報年度別投手成績
背番号
テレビ出演
脚注
関連項目外部リンク
|