小杉二郎小杉 二郎(こすぎ じろう、1915年(大正4年)3月25日 - 1981年(昭和56年)2月17日)は、日本のインダストリアルデザイナー。東洋工業(現在のマツダ)の乗用車やトラック、新三菱重工業(現在の三菱重工業)のスクーター、蛇の目ミシン工業のミシンなどのデザインを手がけ、日本のインダストリアルデザイナー第一世代を代表する人物として知られる[1]。没後38年を経た2019年(令和元年)11月、日本自動車殿堂の2019年度の殿堂者に選出された[2]。 父は洋画家の小杉放庵、兄は美術史学者の小杉一雄、甥には洋画家の小杉小二郎(一雄の子)がいる[3]。 来歴1915年(大正4年)、東京市滝野川区にて洋画家である父・小杉放庵(国太郎)と母・ハルの二男として生まれる[4]。1938年(昭和13年)に東京美術学校図案科を卒業[4]。その後兵役でで車両修理の仕事に携わった後、1944年(昭和19年)に商工省工芸指導所に入所、そこでは木製航空機部品の設計部門で働くこととなった[5]。しかし、1945年(昭和20年)4月にふたたび応召され、その後間もなく終戦を迎えた[5]。なお、二度目の入営の直前となる3月に針重敬喜の次女、千鶴子と婚礼を挙げている(入籍は終戦直後の8月18日)。 戦後は、1947年(昭和22年)に山脇巌らと「生産工芸研究所」を設立し、1949年(昭和24年)からはフリーランスとして活動、日本におけるフリーデザイナーのパイオニア的存在として活躍[5]。1953年(昭和28年)に「ジャノメミシン320型」が毎日新聞社主催の「第2回毎日工業デザインコンクール」で特選第一席に選ばれた[4][6]。また、1952年(昭和27年)には新潟県三条市に招聘され、1981年(昭和56年)に亡くなるまで現地企業の多くの製品のデザイン指導も行った[1][7]。 小杉はデザイナー団体としての活動にも携わっており、1952年(昭和27年)には小杉を含む25名のメンバーで日本インダストリアルデザイナー協会 (JIDA) を設立し、1961年までは理事、そのうち1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)までは理事長を務め[8]、1974年(昭和49年)には同協会の名誉会員理事となった[4]。JIDA理事長時代には通商産業省主導のグッドデザイン商品選定制度に反対し、会員に審査辞退を決議させたことがある[9]。また、1960年(昭和35年)に日本で開催された世界デザイン会議は「その時期に非ず」として団体としての不参加を表明した[9]。このほか、1955年(昭和30年)から1971年(昭和46年)まで毎日工業デザインコンクールの審査員を務めた[4]。 1981年(昭和56年)、三条市から帰京後、1月30日に目白の小杉二郎デザイン研究室に出勤後、脳出血で倒れる。同年2月17日に逝去[4]。墓所は栃木県日光市の小杉家墓所にある[4]。生前に申請した特許・実用新案の数は200を超える[9]。 主な仕事東洋工業(現・マツダ)東洋工業は、1948年(昭和23年)に小杉にデザインを相談したのをきっかけに、以後10年あまりにわたって多くのマツダ車のデザインを小杉が担当した[8]。
など 蛇の目ミシン工業(ジャノメミシン)蛇の目ミシン工業と小杉との関係は、小杉がデザインした「ジャノメミシン320型」が第2回毎日工業デザインコンクールで特選第一席に選ばれたことに始まる。同社は小杉のデザインをほぼそのままの形で製品化し、以後長年に渡って多くの機種のデザインを小杉が手がけた。
など 新三菱重工業(現・三菱重工業)など 新潟県三条市の企業など その他
など MK-6001965年(昭和40年)に発表した、一品製作の2人乗りスポーツカー。 上半分が赤、下半分が灰色のボディーを持つ[17]。ボンネットには使用時に起き上がる丸形ポップアップ式ヘッドランプが装着され、キャビンは側窓と屋根が一体となったキャノピーで覆われている[18]。ドアは強度の都合で上半分のみが上から下に外側に開くようになっており(従って、一般的な自動車のような前ヒンジではなく下ヒンジとなっている)、乗り降りはキャノピーを後方にスライドさせてからドアを開いて行う[18]。 イタリアのカロッツェリアの仕事の方法に倣い、エンジンや足回り等はメーカーの既成品を使い、ボディーを自製した[18]。ボディーは東洋化工、エンジン関係や組み立ては東洋工業およびマツダオート横浜の協力を得て製作された。小杉と、小杉の研究室のデザイナーだった松本文郎が一貫してこのプロジェクトに携わり、製作期間は図面・製図・モデル製作に1年、製作を開始してからさらに3年かかった[18]。 主なスペックは以下の通り[18]。
年表
エピソード
著書
出典
参考文献
関連項目
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