小早川貞平
小早川 貞平(こばやかわ さだひら)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。沼田小早川氏の当主。 生涯元弘3年/正慶2年(1333年)、元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣。東国へ落ち延びていく六波羅探題の一族郎党400人余りが、近江国番場蓮華寺で自刃する現場までつき従うが、その場を脱出し本領・安芸国沼田荘まで逃げ帰っている。貞平は当時16歳であったと伝わる。 建武4年/延元2年(1337年)3月12日、 従五位下・備後守を賜る。暦応4年/興国2年(1341年)10月10日、安芸国沼田荘内安直などの所領を、父・宣平(のぶひら)より譲り受ける。 正平6年/観応2年(1351年)6月12日、安芸国守護職に補任される[1]。天授5年/康暦元年(1379年)、康暦の政変に際して、安芸国矢野城、同国天野城攻めに室町幕府軍主力とし参陣した[4]。 脚注参考文献
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