小宮氏
小宮氏(こみやし)は、鎌倉時代以来の武蔵国出身の武家。伊予国、肥前国、筑後国でも活動した。 出自日奉姓西党の系図によると、日奉宗頼の5世孫・上田三郎某の次男の小宮重行が祖とされる。『吾妻鏡』には、小宮七郎(建久元年(1190年、建久6年(1195年)や小宮五郎左衛門尉(嘉禎4年(1238年))といった名前が見える。「東寺百合文書」には、系図で重行の子とされる小宮久行(久行法師)を筆頭に小宮景行(三郎兵衛尉)、西縁(兵衛次郎入道)、小宮頼行(又三郎)、小宮茂忠(左衛門四郎)、小宮茂広(三郎次郎)の名前が見え、実在が確認されており、武蔵国多摩郡秋留郷の地頭を務めていた小宮氏が新補地頭として承久の乱以後に西遷したと考えられる[1]。
一方、『東川副村誌』所収の垣内氏系図によると、藤原道長の孫・藤原通信の三男で日向通良[注釈 1]の弟の小宮三郎通経が祖とされる[3]。通経は秋留郷の地頭職を務めており、子の小宮経広、三郎兵衛尉、四郎左衛門尉も秋留郷周辺の立矢村、小塩村、井野村に住んだ。経広の子は小宮経行・小宮景広・小宮右衛門五郎などがおり、肥前国高来郡福田村や伊佐早荘田給・河副荘光法名に移住した[4]。南北朝時代初期には肥前国内の地頭として小宮三郎通広が確認できる[5]。
日奉氏の出自『柳川市史』によると、柳川市の小宮氏は日奉姓であり、筑後国三池郡日奉郷から移住したという[6]。福岡県三池郡高田町(現・みやま市)の『高田町誌』によると、「宝満神社由緒記」に「保安2年(1121年)御木国造[注釈 2]の後裔高木城主宇治正連の孫、宇治正永の臣日奉邑(中略)城主日奉臣高田」とあるとされる。また、「旧記に云ふ」として、日奉氏の系譜が記されている。その系譜は以下の通りである[7]。
脚注注釈
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