小坂照男
小坂 照男(こさか てるお、1940年11月18日 - 2019年4月3日)は、日本の元プロボクサー。千葉県君津郡富津町(現・富津市)出身。元日本ライト級、OBF東洋ライト級王者。現役時代は帝拳ボクシングジム所属。 人物16歳の頃、帝拳名誉師範荻野貞行の葉山の自宅へクリーニング店の配達に出向いていたところ、その筋力と面構えが荻野の目に留まり、帝拳に紹介されて心技両面から指導を受けるようになった[1][2]。 カウンターパンチャーが多い中、強烈な左右フックを武器にフルラウンドにわたって打ち続けることのできるファイターだった[2]。 来歴1957年3月30日、プロデビュー戦では4R判定勝利を収めた。同年12月15日、第14回東日本フェザー級新人王トーナメント決勝戦で6R判定負けを喫した。 1960年12月14日、石川圭一に判定勝利を収め、日本ライト級王座を獲得した。1958年後半から1引分を挟んで27連勝を収めながら日本王座を1度防衛後の1961年9月2日、メトロ・マニラにて、すでに現役世界王者でもあったフラッシュ・エロルデが同時に保持するOBF東洋ライト級王座に挑戦し、判定負けを喫した。 日本王座を2度防衛後の1962年4月30日、エロルデへの再挑戦に判定勝利を収め、OBF東洋ライト級王座を獲得したが、同年8月4日、セブ州でエロルデに判定負けを喫し、同王座を失った。 同1962年12月3日、カルロス・オルチスの持つ世界ライト級王座に挑戦したが、5RKO負けを喫した。 日本王座は4度防衛後の1963年9月15日に返上し、1964年7月27日、蔵前国技館で、エロルデの持つ世界ジュニアライト級王座に挑戦。強打のサウスポー同士の4度目の対戦は凄まじい打ち合いとなり、前半は優勢に試合を運んだものの徐々に挽回され、12Rに連打を受けてレフェリーが試合を止めると会場は騒然となったが、12RTKO負けに終わった[3][2]。 1965年6月5日、メトロ・マニラのアラネタ・コロシアムでエロルデの持つ同王座に再挑戦。通算3度目の世界挑戦は15RKO負けとなり、同年9月6日、シュガー・ケン・カレオン(フィリピン)に10R判定で引き分けた試合を最後に現役を引退した。 引退後の一時期は北海道ボクシングジムのマネージャーを務めるなどしていたが、2019年4月3日に死去[4]。78歳没。 戦績プロボクシング:74戦63勝(24KO)9敗2分4EX
獲得タイトル
参考文献
関連項目外部リンク
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