富澤家富澤家(とみざわけ)は武蔵国多摩郡連光寺村(現多摩市連光寺周辺)の地主であり、江戸時代を通じて連光寺村の名主を世襲した[1]。地域の有力者として幕末に至った[2]。1872年(明治5年)の名主制度廃止まで名主を務めた[3]。 ![]() 家祖伝説富澤家が連光寺村に居住するようになったのは、家祖が永禄年間(1558年-1570年)当地に帰農したことに始まると伝えられる。家譜によれば畠山重忠13代の子孫の為政が初めて富澤姓を称した。その3代の子孫の政之とその嫡男の政本は今川義元に属した。永禄3年(1560年)、そのころ後北条氏の馬飼場であったこの地を攻略し、同年に今川義元が討ち取られると、ここに定住した。逃散した百姓を招き、荒地を開拓して、水利を図ったという[4]。 馬飼場の攻略については、1887年(明治20年)ごろ作成の『連光寺村誌』に次のような伝説が記載されている。北条氏はこの辺りの山野を牧場として、軍馬を飼養していた。陣屋を構え、牧士を置き、これを赤坂駒飼場の陣屋と称した。永禄3年(1560年)春、今川氏の旗下の富澤修理政本は、500の兵士を率いて矢倉沢より出て八王子・日野を経て、多摩川の北岸に布陣した。駒飼場の陣屋を攻めようとしたが、敵兵は自陣を堅く守って出てこなかった。富澤政本は夜に兵を集めて筏を連ねて橋にして、多摩川を渡って不意に攻め、敵の陣屋を焼いた。敵兵は敗れて小田原に逃走した。富澤政本は陣をここに移した。ところが同年5月19日に桶峡間の戦いで今川義元が自刃した。富澤政本は歎息して陣を引き払って駿府に戻った。復讐を建白したが、用いられなかった。このため今川家を辞して去り、再びこの地に来た。逃散した人民を招き、家臣に命じて山野を開拓させて、ここに土着したという[5]。 以上の伝説は史実とすれば無理があり、近世の創作であるとみられる。また、富澤家の出自を証明するかのような史料として、今川義元より富澤修理政本へ宛てた感状が『武州古文書』に収録されているが、これも偽文書である[5]。 富澤家と連光寺村の概要![]() 連光寺(蓮光寺)の地名は、鎌倉時代の吾妻鏡に見えるが[6]、戦国後期に当地一帯を支配した北条氏は、所領役帳に連光寺の地名を記載していない[7]。連光寺に土着したと伝わる富澤政本の子の忠岐の時、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、徳川家康が関東に入部した[4]。これにより近隣の村々は文禄3年(1594年)に検地をうけた。しかし連光寺村の検地は遅れ、慶長3年(1598年)9月15日の検地が初見である[7]。連光寺村の検地では富澤修理忠岐が案内を務めた。検地帳における富澤家の主作と分附地は19町6反2畝27歩で、検地総面積の4割を占めた。検地以来、富澤家が代々連光寺村の名主を世襲した。所有地は村内最大でありつづけた[4] 富澤家が名主を務める連光寺村は、初め徳川氏の直轄地とされて代官の支配を受けた[7]。寛永10年(1633年)、天野氏の知行地となった。天野氏は三河以来の徳川家譜代の旗本で、この年に加増分として連光寺村とその隣りの坂浜村、および都筑郡万福寺村を宛がわれた。このほか上野国と下総国の各1村を知行地としていた[8]。 連光寺村は4つの集落から成っていた。中心は本村と呼ばれ、連光寺村のほぼ中央部にあり、村内で最大の集落であった。本村のほか、馬引沢、舟郷、下河原の3つの集落があって、それぞれ自立した事実上の村落であったが、行政上は富澤家が名主を務める連光寺村に包括されていた[9]。
富澤家歴代![]() ![]()
富澤家文書富澤家文書はいわゆる名主文書である。村の名主の立場から作成された文書記録が大半を占めている[26]。土地関係・貢租関係の記録文書はよく保存されているが、戸口関係史料は乏しい[27]。 また幕末期には富澤家当主が関東御取締改革組合の大惣代を務めていたので、組合村に関する文書が含まれる[26]。組合村とは、文政10年に関東の御領私領の区別なく村々を取締るため関東御取締出役の制度を設けた際、その下部組織として村々を編成したものである。日野宿組合は43か村から成り、寄場は日野宿で、大組合惣代は柴崎村名主次郎兵衛と連光寺村名主忠右衛門であった。明治維新後そのまま第32区になった[27]。 明治維新後は富澤家当主が地租改正係を務めたのでその関係資料が含まれている。その後の明治前期の戸長役場時代には当主が県会議員を務めており、戸長を務めていないため、富澤家文書に戸長記録はない[26]。 富澤家日記富沢家日記は連光寺村の名主日記である[2]。天保14年(1843年)から明治41年(1908年)までほぼ連続して残されている。表題は「公私日新記」「公私日記帳」などで、公私にわたる多様な事柄が書き込まれている。公的文書だけでなく、自家の経営や金銭出納、奉公人や職人、地震・水害・火事、村の年中行事、参詣、喧嘩口論、講など様々なことが書かれている[28]。 幕末維新期には、近藤勇や土方歳三や沖田総司に関する記事、日野農兵に関する記事、戊辰戦争の状況や彰義隊・振武隊に関する記事などが記載されている[2]。 富澤家住宅![]() ![]() ![]() 富澤家住宅は関戸(現聖蹟桜ヶ丘駅周辺)から連光寺へ向かって乞田川の橋を渡り、坂道を登ったところにあった。この山村に稀に見る大きな門構えの邸宅であった[29]。 幕末には上洛前の近藤勇や沖田総司が富澤家当主政恕を当宅に訪ねた[30]。明治になって1881年2月、1882年2月、および1884年3月の明治天皇の行幸で御小休所にあてられた[31]。皇族の行啓の際にも御小休所として利用された[10]。御座所は十畳の座敷で、前面に十畳間と七畳間の二間を隔てて玄関に連なっていた[32]。 1886年、富澤家の敷地内に御休所が建設された。これは天皇・皇族の休憩や宿泊に用いるためであった。これ以前、天皇・皇族の宿泊場所は府中の田中家が使用されていた。府中は御猟場から距離があるため、御猟場内の富澤邸に専用施設を必要としたと考えられる。御休所は、御猟場日記中に「御用邸」とも「行宮」とも記された。明治天皇がここを利用することはなかったが、1887年には嘉仁親王(のちの大正天皇)が8月21日と10月17日に昼食所・休憩所として使用し、10月3日に昭憲皇太后がここを宿泊所として一泊した。御休所は1923年の関東大震災で被害に遭い、これをきっかけに取り壊された[33]。なお、1886年に明治天皇の行在所として富澤政恕邸内に建てられたと称する建物が、1959年に篤志家から明治神宮に寄付されて境内に移築されたが、13年後に解体された[34]。 1933年、富澤家住宅の建物と敷地が「明治天皇連光寺御小休所」として国の史蹟に指定された[35]。1935年には文部省史蹟調査報告書『明治天皇聖蹟』に掲載された。建物は慶長15年(1610年)の上棟建築とされ、主要部分は行幸当時の旧状をよく保存しているとされた[32]。同年、敷地に「明治天皇連光寺御小休所」の石柱が建設された[31]。 戦後1948年、全国の明治天皇聖蹟とともに国の史跡指定を解除された[36]。占領下において「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされたのである[37]。富澤家住宅は、1990年5月に多摩市が富澤政宏より寄贈を受け、復元後、多摩中央公園に移築した。完全な復元は難しく、屋根の茅葦を銅板葺に改めるなど一部変更した[10]。 主屋は文化9年(1812年)の屋根葺替の記録が残る。建築手法などから18世紀中頃から後半に建築されたと推定される。また嘉永5年(1852年)から明治にかけて、式台付玄関、客座敷の縁側、便所などが改修され、数回の増改築を経て上層民家として形を整えたと考えられる。主屋の規模は桁行9.5間、梁行5間。間取りは広間型多間取で、客座敷と日常生活とを完全に分離している。構造は入母屋造で、小屋梁の上に上屋梁を乗せる[10]。 2019年現在、多摩市によって「旧富澤家」として多摩中央公園で保護公開されている[38]。もとの跡地には邸宅が新築され、「明治天皇連光寺御小休所」の石柱だけが保存されている[39]。 高西寺連光寺村にある高西寺は、慶長4年(1599年)に富澤家当主が父の菩提寺として建立したとされる。が、江戸時代には創建年月不明であった。山号は神明山、宗派は曹洞宗、本尊は阿弥陀如来座像(木造長さ二尺)、開山は壽徳寺(旧寺方村、桜ヶ丘4丁目)三世の超巌守秀である[40]。 脚注
参考文献
関連項目
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