宮部金吾
宮部 金吾(みやべ きんご[1]、1860年4月27日(万延元年閏3月7日) - 1951年(昭和26年)3月16日)は、日本の植物学者。北海道帝国大学名誉教授。札幌市名誉市民[1]。札幌農学校(現在の北海道大学)第二期卒業生。 生涯生い立ち江戸の下谷に生まれる[2]。生家が探検家松浦武四郎の住居に近く、松浦から蝦夷地(北海道)のことを聞かされていたことが北海道へ向かう動機になったといわれる[3]。明治7年に東京外国語学校に入学し、後年土木工学者となる広井勇と同期生として学ぶ[3]。広井とはのちに札幌農学校でも同期生となる。 札幌農学校へ入学1877年(明治10年)に札幌農学校へ入学する[1]。同期には新渡戸稲造と内村鑑三がおり[1]、1878年(明治11年)6月には、新渡戸・内村などと共にメソジスト教会のハリス宣教師から洗礼を受けることとなる[4]。(札幌バンドも参照のこと) 寮では内村鑑三と同室であり、親しい友人だった[3]。卒業時の順位は内村が主席であり、宮部が2位だった[3]。 札幌農学校の教授へ卒業後は開拓使御用掛となる。1881年(明治14年)11月、宮部は開拓使により東京大学へ派遣される[5]。これは将来の農学校教師にするためで、南鷹次郎(駒場農学校へ)と共に国内留学することとなった[5]。1883年(明治16年)、札幌農学校助教に就任[1]、植物園設置の計画立案を命じられる[6]。この準備として[6]、翌年6月から8月にかけて道東[7]への植物採取を行っており[6][7]、日高地方・北見地方・千島列島(色丹島、択捉島、得撫島)に至る調査となった[6]。 1886年(明治19年)7月、植物学研究を目的としてハーバード大学への留学に旅立つ[8]。当時の世界的植物学者エイサ・グレイの薫陶を受け[9][10]1889年(明治22年)まで留学し、「千島植物誌」を著して博士号を取得する[11]。欧州・ロシアを経由して諸国の研究機関を歴訪し[11]、カール・ヨハン・マキシモヴィッチらと交流ののち帰国[3]。帰国後は札幌農学校教授となり[1]、日本初の近代的植物園である札幌農学校植物園の主任に就任する[6]。のちに植物園の初代園長を務める[1]。1899年(明治32年)3月、文部大臣より理学博士の学位を授与される[12]。 退官後1927年(昭和2年)、定年退官。同年5月には北海道帝国大学における最初の名誉教授となる[13][注釈 1]。1930年(昭和5年)1月、日本学士院会員に選定される(1951年3月に退任)[14]。1932年、アメリカ芸術科学アカデミー会員に選出[15]。1936年(昭和11年)、日本植物学会会長[16]。1946年(昭和21年)2月、文化勲章を受章[17]。1949年(昭和24年)、札幌市栄誉市民の第一号となる[1]。 死去と没後1951年(昭和26年)、死去[1]。享年92(満90歳没)。葬儀は札幌独立キリスト教会で営まれた[18]。墓所は円山霊園(札幌市)。 晩年を過ごした札幌市桑園の住宅跡は宮部記念緑地として公園となり[19]、設立に尽力した北海道大学植物園には宮部金吾記念館が設置されている[1]。 栄典
主な著書
由来する命名然別湖に生息するミヤベイワナの名称は、最初の発見者である彼の名前にちなんで、農学博士の大島正満が命名したものである。 植物の分布境界線「宮部線」に名を残している。 論文
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンク |
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