宮地嶽古墳
宮地嶽古墳(みやじだけこふん)は、福岡県福津市宮司元町にある古墳。形状は円墳。津屋崎古墳群(国の史跡)を構成する古墳の1つ。出土品は国宝に指定されている。 全国第2位の規模の巨大石室を有し、豪華な副葬品が多数出土したことで知られる。本項では、宮地嶽火葬墓(出土品は国宝に指定)についても解説する。 概要福岡県北部、宮地岳(標高180.7メートル)山腹の南斜面上(標高約55メートル)に築造された大型円墳である[1]。付近には古代の宮地嶽火葬墓の存在が推定されるほか、かつて斜面下には小古墳群が分布し、禊池を挟んだ丘陵上には宮司井手ノ上古墳が所在する[2]。現在は宮地嶽神社奥宮の不動神社として祀られる。江戸時代中期に石室が開口し、昭和期に副葬品が複数回出土しているほか、1937・1996年(昭和12・平成8年)に石室実測調査が実施されている(発掘調査は未実施)。 墳丘周囲は改変されているが、元は直径35メートル程度の円形と推定復元される[1]。埋葬施設は横口式石槨系の横穴式石室で、東方向に開口する。石室全長23メートルを測る長大な石室であり、全国第2位の規模になるとして注目される。石室内の発掘調査は行われていないが、付近では長さ3メートル弱の長大な金銅装頭椎大刀を始めとして金銅製冠・金銅製馬具・ガラス板・銅器・須恵器・土師器などの、当初は石室内に納められた副葬品と見られる品が出土している。質・量とも優れており、特に唐草文の馬具や冠などには豊かな国際色が認められる点で注目される[3]。 築造時期は、古墳時代終末期の7世紀中葉[4](または7世紀前半-中葉[3]/7世紀前半[1]、TK217型式期)頃と推定される。宗像地域の古代氏族である胸肩君(宗像氏)一族の首長墓とする説が有力視され、具体的な被葬者としては胸肩君徳善とする説が挙げられる。巨大な横穴式石室、豪華な副葬品の点で、日本を代表する古墳の1つである。 古墳域は2005年(平成17年)に国の史跡に指定され、出土品は1952年(昭和27年)に国宝に指定されている。現在では年3回の大祭時を除いて石室内部への立ち入りは制限されている。 遺跡歴
墳丘墳丘は緩斜面の尾根を切断し、地山の整形を行ったうえで構築されている[1]。現在の墳丘は、南北27メートル・東西34メートルの楕円形を呈するが、元は直径35メートル程度の円形と推定復元される[1]。墳丘上には、厚さ2メートル程度の2次盛土が認められているが、これは1934年(昭和9年)以前の石室内の掘り下げ時の排土とされる[1]。 墳丘周囲には、幅1メートル・高さ1.4メートル程度の石による列石が巡らされ、羨門両側では3段に積む[1]。列石は1934年(昭和9年)以前に設置されたもので、墳丘周囲を削平しており、元はそれ以上に墳丘が広がっていたと見られる[1]。 埋葬施設埋葬施設は横口式石槨系横穴式石室で、東方向に開口する。羨道・玄室のうち、玄室の奥側は一回り狭まって奥室・前室に区分され、畿内の横口式石槨同様の複室構造を呈する。石室の規模は次の通り[1]。
石室の石材は恋ノ浦海岸の礫岩とされる[1]。巨石が使用されており、海岸部から中腹まで引き上げる際に多大な労力が必要となったことが示唆される[4]。石室は五条野丸山古墳(奈良県橿原市)の全長28.4メートルに次ぐ全国第2位の規模になる。 石槨(奥から1石目)では、約3メートルの一枚石3個を組む。玄室(奥から2-4石目)は、両側壁に高さ3.1-4.5メートルの一枚石を立て並べる[1]。特に2石目の左右には石材を刳って龕が形成されており、その石材は石室内で最も大きな石で、厚さ1.7メートル以上を測る[1]。江戸時代の記録に基づけば、龕は当初から存在したと見られる[1]。羨道(奥から5-7石目)は、2-3段積みとする[1]。羨門付近には0.3-0.4メートルの塊石が不規則に積み上げられるが、これは2次的な石積みとされる[1]。床面は、現在ではコンクリート打ちのため詳らかとしないが、元は全体に玉石による敷石をした上に、床石を配したと推測される[1]。天井石は、石槨では厚さ0.5メートル、2石目(龕)上では厚さ1メートル、4石目上では厚さ1.65メートルを測る[1]。 宮地嶽古墳と同様の石室構造を持つ古墳としては、手光波切不動古墳(福津市手光)が知られる。かつては宮地嶽古墳→手光波切不動古墳の築造順と見られていたが[1]、2010-2011年度(平成22-23年度)の手光波切不動古墳の調査等を踏まえて、近年では手光波切不動古墳→宮地嶽古墳の築造順と推測される[4]。
出土品昭和期に古墳付近から出土した副葬品は次の通り[1]。宮地嶽神社所蔵品(東京国立博物館のち九州国立博物館寄託品、国宝指定)にはMを付して掲載する。
被葬者宮地嶽古墳の被葬者は明らかでないが、宗像地域の古代氏族である胸肩君(宗形氏/宗像氏)の首長と推定され、具体的な被葬者としては胸肩君徳善(むなかたのきみとくぜん)とする説が挙げられる。胸肩君徳善は、高市皇子(654?-696年)の外祖父とされる人物である。 『日本書紀』天武天皇2年(673年)2月癸未(27日)条の皇統譜によれば、大海人皇子(第40代天武天皇)は胸形君徳善の娘の尼子娘と婚姻関係を持ち、高市皇子をもうけている。他の文献に記述が見られないため詳らかでないが、高市皇子は壬申の乱で大海人皇子軍の統帥となり、持統天皇4年(690年)には太政大臣に任じられていることから、外祖父の胸形君徳善は宗形氏の中央進出のきっかけになった人物と想定される[8]。高市皇子は持統天皇10年(696年)に死去するが、その際の年齢を『公卿補任』では42歳または43歳、『扶桑略記』では43歳としており、白雉5年(654年)頃の生まれと見られることから、尼子娘の婚姻もそれ以前と推測される[9]。 宮地嶽古墳からは具体的な人物名を示唆する遺物は出土していないが、手光波切不動古墳・宮地嶽火葬墓の存在を考え合わせて、古代宗形氏との関連性が推測される[1]。 宮地嶽火葬墓宮地嶽火葬墓(みやじだけかそうぼ)は、宮地嶽古墳の付近にあったと見られる古代火葬墓。 宮地嶽古墳の石室開口部から東方向の丘陵西斜面上(標高約65メートル)において、1938年(昭和13年)に植樹作業中に表面下約1尺からガラス製蔵骨器が出土したことで発見された[1]。蔵骨器は陶質の合せ甕(鉢)の中に入っており、銅製有蓋高台壺の中にガラス製有蓋短頸壺を納める[1]。土器は後世のものであるため、再埋納品とされ、本来の墓の所在・構造は明らかでない[1]。 ガラス製蔵骨器は、文祢麻呂墓(奈良県宇陀市)のものと形態・製作技法が類似するが、同墓では慶雲4年(707年)銘の墓誌が出土していることから、宮地嶽火葬墓も同様に8世紀初頭頃の築造と推定される[1]。被葬者としては、胸肩君徳善の娘の尼子娘とする説や、『続日本紀』和銅2年(709年)に宗像郡大領に任じられたと見える宗形等抒とする説がある[1]。 出土蔵骨器は1961年(昭和36年)に国宝に指定されている[6]。 文化財国宝
国宝「宮地嶽古墳出土品」・「筑前国宮地嶽神社境内出土骨蔵器」の明細
関連施設脚注
参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia