宇山久兼
宇山 久兼(うやま ひさかね)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。 出自宇山氏は近江源氏庶流・佐々木氏の一流。佐々木頼綱の弟・輔綱が鳥山氏を名乗りその子孫が宇山氏に改姓したとされる[1]。 生涯尼子経久の代から仕える。その孫・晴久の天文9年(1540年)の吉田郡山城攻め、永禄元年(1558年)・永禄3年(1560年)の石見国攻めなどに参加した。 永禄5年(1562年)から毛利元就が月山富田城攻めを起こすと、久兼は主君・尼子義久を懸命に励まし、元就による兵糧攻めが行なわれても、私財を投げ打って兵糧を調達するなど、忠臣として大いに活躍した。しかし、大塚与三衛門の讒言により、義久によって城中にて殺害された。久兼の死により、籠城戦に必死に耐えていた尼子軍は総崩れとなり、滅亡へと向かって行くこととなった。 宇山誠明と宇山飛騨守一方で、宇山姓の尼子方武将は宇山誠明や宇山飛騨守と名乗る別人もいる。宇山一族の大半は義久により粛清されたとされるが、宇山誠明は降伏時まで富田城に在城しており、二宮俊実が記した「義久様へ之御供之衆」では移送時の同行者一覧の筆頭に名があり、義久の幽閉先まで同行を許されているのが分かり、その後安芸志道で病死した。 誠明は尼子義久が江見氏等の美作国人に宛てた文書にも「宇山右京亮」として度々登場しており、他の江見左衛門佐宛の文書には「宇山飛騨守は死んだが動揺することはない」というものがある。 つまり、同行者一覧で筆頭に居た宇山誠明は生きていたが、宇山飛騨守は誅殺されたことになり、この宇山飛騨守が後に宇山久兼として伝わったものだと思われる。ただ、宇山飛騨守の尼子家臣としての立場は、重臣佐世清宗・牛尾幸清・中井綱家・立原幸綱・川副久盛と比べると格下だったと思われる。 関連作品脚注
|