学びの聖堂座標: 北緯40度26分39秒 西経79度57分11秒 / 北緯40.44417度 西経79.95306度 学びの聖堂(まなびのせいどう、Cathedral of Learning)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ市東部、オークランド地区にキャンパスを置くピッツバーグ大学のメインの校舎。同学の哲学科、科学哲学・科学史学科、英語学科、宗教学科、社会福祉学科が本部を置いている。 学びの聖堂は42階建て、高さは163mで、大学の建物としては全米で最も高く、世界的に見ても教育テレビの建物の高さでは世界5位の高さを誇る。学びの聖堂には2,000室以上の部屋が設置されているが、正面玄関から4階分の高さを有するコモンズ・ルームと、1階および3階に設けられている、各国の建築様式に沿った27部屋のナショナリティ・ルームは特に著名である。このゴシック・リバイバル建築様式の校舎は学内やオークランド地区におけるランドマークとして、大学の写真や絵葉書、その他広告に広く使われており、ピッツバーグの観光名所の1つにもなっている。 学びの聖堂は1921年にその建設が計画され、1926年に着工された。この校舎での最初の授業は校舎が完成する前、1931年に行われた。校舎の外観は1934年10月に完成した[1]。校舎が正式に開館したのは1937年であった。鉄骨構造のこの校舎の建材にはインディアナ州南部特産のインディアナ・ライムストーンと呼ばれる高級な石灰岩が使用された。学びの聖堂は1975年に国家歴史登録財に指定された[2]。 用途学びの聖堂の内部は専ら教育目的に使われ、各階は劇場、コンピュータラボ、教室、各学部の事務所で概ね占められているが、36階以上の階層では校舎の機械設備が多くの部分を占めている。地下には劇場があり、地上階(1階正面玄関のすぐ下の階)にはコンピュータラボ、教室、およびカテドラル・カフェ(Cathedral Café)というフードコートが設けられている[3]。1階正面玄関を入ったところに設けられている、4階層分吹き抜けのロビーには、主に学習スペースおよびイベント会場として使われているコモンズ・ルームがある。コモンズ・ルームの周りは、27部屋のナショナリティ・ルームを含む教室に囲まれている。1階にはナショナリティ・ルームの土産物屋も置かれている。また、1階には学長室、副学長室、および各管理部署の事務所も置かれている。3階には166人収容の大教室、フリック講堂が置かれている[4]。35階・36階にはピッツバーグ大学の優等生プログラムであるオナーズ・カレッジが置かれている[5]。 37階より上は一般には公開されておらず、立ち入りにあたっては、この建築物の技術担当者など、大学側から権限を与えられた者だけが保有している特別な鍵が必要となる。40階にはバブコック・ルームという会議室が設けられており、会議、セミナー、イベントに使用される。41階には無線の発信装置やエレベーターの機械室が設けられている。学びの聖堂の最上部には、連邦航空局の定めるところに従って航空障害灯が設置されている。この航空障害灯は、ピッツバーグ大学のスクールカラーである青色と金色の光を一定間隔で入れ替えて灯すようになっている[6]。 歴史1921年、ピッツバーグ大学の第10代学長に就任したジョン・ギャバート・ボーマンがピッツバーグにやってきたとき、同学はオーストリア系アメリカ人建築家ヘンリー・ホーンボステルによる建設計画の下に校舎の建設を進めていた最中で、第一次世界大戦時に建てられた臨時の木造校舎も残っていた。そのとき、ボーマンはピッツバーグにおける教育の劇的な象徴となること、およびその当時の、また将来的なニーズを満たし得るだけのスペースを確保し、過密状態を軽減することを狙って、後に「学びの聖堂」と呼ばれることになる高層の庁舎を思い描いた。ボーマンはその理由について、次のように述べている。
この校舎を建てるのに適した土地を探している最中、ボーマンの目はフリック・エーカーズと名付けられた14エーカー(約57,000m²)の土地に向けられた。1921年11月、メロン家の援助を受けて大学はその土地を購入し、大学の正規の校舎をそこに建てる計画を立て始めた。校舎の設計には、当時ゴシック建築においては最先端を行っていたフィラデルフィアの建築家、チャールズ・クローダーが起用された。2年の月日を費やして出されたこの校舎の最終設計案は、近代的な超高層建築物にゴシック建築の伝統を織り交ぜたものとなった。しかし、この案で設計された建物は当時のピッツバーグにはまだ高すぎると考えた地域住民や一部の大学関係者は、この設計案に強い抵抗を示した。 ...in the literal sense of the word, Late Gothic Revival architecture culminated in the University of Pittsburgh's skyscraping Cathedral of Learning.
(字義通りの意味で、後期ゴシック・リバイバル建築はピッツバーグ大学の摩天楼、学びの聖堂を以って最高点に達した) 学びの聖堂の建設費用は企業、個人、アメリカ合衆国外の政府などからの寄付を含め、様々な形で調達された。1925年、ボーマンは費用調達と同時に住民の関心を高めるため、キャンペーンを行った。その中でもとりわけ重要な位置を占めていたのは、市内の子供たちを対象としたBuy a Brick for Pitt(ピッツバーグ大学のためにレンガを買おう)というタイトルの付されたものであった。これは、市内の学校に通う児童・生徒が1人1枚の10セント硬貨、およびその10セントをどうやって手に入れたかを記した手紙を大学に送り、それに対して大学は子供たちにレンガ証書を返送するというものであった。このキャンペーンには97,000人の子供たちが参加した。 1926年に建設が始まった時点では、学びの聖堂はピッツバーグ市内で最も高い建築物になる予定であった。しかし、1930年に建設が始まった44階建て、高さ177mのガルフ・タワーが1932年、学びの聖堂よりも先に完成したため、1937年に正式に開館した学びの聖堂がピッツバーグで最も高い建築物になることはなかった。開館当時は、学びの聖堂は大学の建物としては世界一の高さであったが、その後1953年にモスクワ大学のメイン・ビルディング(36階建て、高さ240m)が開館し、世界一の座を譲った[8]。 コモンズ・ルーム1階の主となる部分は床面積2,000m²、天井までの高さ16m、4階層分の吹き抜けとなっているゴシック様式の回廊、コモンズ・ルームである。回廊のアーチはには鉄骨は使われておらず、それぞれのアーチが重さ約5tの柱で支えられている。壁にはインディアナ・ライムストーンが、また床にはバーモント州産のスレートが使われている。 この回廊はアンドリュー・メロンが寄贈したものである。クローダーは最初、建設費用の高騰を理由にこの建築構造を取り入れることには反対したが、ボーマンは「インチキをしては立派な大学は造れない」と言って、建築の完璧さを追求した。ペンシルベニア州の植生を現した石材の加工はジョセフ・ギャットーニの手によるものであった。エレベーターへと通ずる門など、この回廊内の錬鉄加工品はジョージ・ハバード・クラップが寄贈し、鍛冶屋サミュエル・イェリンが制作したものであった。門には、イギリスの詩人ロバート・ブリッジズによる無題の詩から以下の句が刻まれている。
冬季の学期末の間、夜遅くまで勉強する学生に快適で過ごしやすい環境を提供するため、コモンズ・ルームの随所にある暖炉には火が点される。 ナショナリティ・ルーム1階と3階には、それぞれの国の建築様式に沿って造られた、27部屋のナショナリティ・ルームと呼ばれる教室が並んでいる。各々のナショナルティ・ルームは、ピッツバーグの発展に影響を及ぼしてきた各国の文化に敬意を表して、合衆国憲法が制定された1787年よりも前の各国の建築様式に則って造られている[10]。 ナショナリティ・ルームは1926年、学びの聖堂の建設にあたってボーマンが地元のコミュニティをできるだけ参画させようとして、その当時のピッツバーグに多く住み着いていた移民が祖先の国の建築様式に則った部屋を校舎内に造れるように提案し、それが形になったものであった。各祖先グループはそれぞれナショナリティ・ルーム委員会を設立し、制作費用の調達、制作場所の獲得、設計、資材確保、制作には全て委員会が責任を負うようにした。一方、大学側は制作場所となる部屋の提供と、制作された後の管理のみを受け持った。いくつかのナショナリティ・ルームはアメリカ合衆国外の政府からの援助を受けて制作された。また、いくつかのナショナリティ・ルームは、当該国で実際に使われている資材や調度品をふんだんに用いて造られた[11]。1938年、最初に造られたナショナリティ・ルームはスコットランド、ロシア、ドイツ、スウェーデンの4部屋であった[12]。新しく造られた教室としては、日本(1999年)、インド(2000年)、ウェールズ(2008年)[13]などの例がある。 1938年から1957年までに造られた、1階にある部屋は制作に3-10年を要し、制作費用は2006年換算で300,000ドル程度であった。それ以後に造られた部屋は概ね500,000ドル以上の費用を投じて制作された[12]。 ナショナリティ・ルームの一覧2009年現在、学びの聖堂には以下の27部屋のナショナリティ・ルームが設置されている。また、これらの27部屋に加えて、デンマーク、フィンランド、大韓民国、ラテンアメリカ・カリブ、フィリピン、スイス、タイ王国、トルコの8つのナショナリティ・ルームを制作する計画が立案・検討されている[14]。
註
参考文献
外部リンク
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