妻木広忠
妻木 広忠 (つまき ひろただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。美濃国土岐郡妻木城主(第12代目)。旗本妻木氏の系譜では、光秀の叔父とされている。また、光秀の正室・煕子の父ともされるが、典拠となる史料は不明であり、俗説の域を出るものではない。 概要尾張国の戦国大名織田信長に仕えて、明智光秀の与力となり成果を挙げた。天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の後、同年6月13日(1582年7月2日)に起きた山崎の戦いで明智光秀が敗れ、近江国坂本城が陥落すると、天正10年6月18日(1582年7月7日)に西教寺で関係者一族の墓を作った後に、墓の前で自害したという。 領地妻木村、笠原村、細野村(半分のみ)、駄知村(半分のみ) ※詳細位置不明:窪田、谷口(妻木郷内か) 妻木氏系譜
宗家 妻木弘定 ┃ 広俊 ┃ 広美 ┃ 頼安 ┏┻━┓ 広忠 範熈 ┃ ┃ 貞徳 煕子 ━━━━┳━ 明智光秀 ┣━━┳━━┓ ┃ 頼忠 頼久 頼通 珠子 ━━ 細川忠興 ┣━━┳━━┓ 頼利 頼遠 康広 ┣━━┓ 頼次 幸広 上総妻木家 頼久(之徳)(室・熊本藩士木野左兵衛の親族 註① 註②) ┃ 永徳 │ 頼次 ┃ 頼辰 ┣━━┓ 頼道 頼長 │ ↙ 頼長 ┣━━┓ 釣貞 頼愛 │ ↙ 頼愛 ┃ 頼農 ┃ 頼善 頼幸 │┏━┛ 頼功 ┃ 頼黄 註① ■(大日本近世史料・細川家史料 8-13)抜粋 元和六年三月廿二日書状 妻吉左(妻木之徳)内々被申候ハ、主女之親類ニ、歳廿計なるもの御座候、吉左衛門肝煎候ハてかなハぬ様子共御座候而、只今も吉左衛門所ニ養て被置候、然故御次而も御座候ハゝ、何とそ申上、知行弐百石被遣、被成御抱候様ニ仕度候由被申候、され共、我等者加様之儀申上たる儀無御座候間、正源院まても談合可仕とまて申候而置申候、如何可有御座候哉事 ■(大日本近世史料・細川家史料 8-25)抜粋 元和六年五月十九日書状 先度申上候妻木吉左衛門尉(之徳)内儀親類木野左兵衛事、可被召置之由、被仰下候間、只今罷下候、吉左衛門尉ハ忝之儀難申盡候間、能々御禮申上候様にと被申候事。 の記載あり。 註② ■木野左兵衛 (1)馬廻組六番 三百石 (於豊前小倉御侍帳) (2)御馬廻衆 三百石 (肥後御入国宿割帳) (3)十二番牧平左衛門組 三百石 (真源院様御代御侍名附) (4)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳) (4)清田石見組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳) (4)御馬廻衆十二番遠坂越後守組 三百石 下郷妻木家 頼通 真田幸政 ┣━━┓ ┃ 頼熊 重門 幸吉 ┣━━┓┌─┘ 頼保 幸頼 ┃ 頼隆 │ 頼直 ┃ 頼栄 │ 頼篤 ┃ 頼徳 ┃ 頼欽 上郷妻木家 幸広 ┃ 光広 ┃ 頼豊 ┃ 頼広 │ 光広 │ 頼興 ┃ 頼幸 ┣━━┓ 頼徳 頼功 熊本藩士妻木家上総妻木家(妻木頼久・之徳)から分家か。同藩士木野家(妻木頼久・之徳の室が木野家出身)との縁戚関係ありか。 初代、勘兵衛 (1)六番筑紫左近組 三百石 (真源院様御代御侍名附)(2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)(3)有吉頼母允組 三百石(寛文四年六月・御侍帳) 2代、源左衛門 御使番・続団右衛門組 御目付 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)細川綱利公御書出(天和三年)三百石 3代、勘左衛門・正方 三百石 御番方八番 屋敷・古京町 享保十二年六月~享保十二年九月 奉行 妻木勘左衛門減知覚(享保十七年五月)減知二百石 4代、勘兵衛 5代、勘五(勘左衛門) 百石 6代、吉左衛門 御番方・朽木内匠組 旧知百石 7代、勇之助(源左衛門)元左衛門—百石 8代、要助(勘兵衛)須佐美権之允組・御留守居御番方 百石 9代、源十郎 百石 『加賀藩士妻木家』 初代、康広(左京) 父・妻木頼忠、500石、大坂の陣で戦死。 二代(養子)、九八郎 父・妻木某(妻木貞徳の子)、弟・政綱、切腹絶家。子に勝教。 『和歌山藩士妻木家』 初代、政綱(嘉左衛門・外記) 父・妻木某(妻木貞徳の子)、兄・九八郎、500石。 二代(養子)、勝教 父・加賀藩士妻木九八郎。 長州藩士妻木家系譜不明、幕末期に活躍。吉田松陰の先祖である吉田矩之は妻木半平の子[1]であり、幕末期にはその縁で吉田松陰の教えを受けて活動する。 妻木忠朝 脚注注釈出典関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia