如月小春
如月 小春(きさらぎ こはる、本名:楫屋 正子〈かじや まさこ〉、出生名:伊藤 正子[1]、1956年2月19日[1] - 2000年12月19日)は、劇作家、演出家、エッセイストである。東京都杉並区出身[2][3]。東京女子大学文理学部哲学科卒業[2][3]。 1970年代後半から劇作家・演出家として活動し、野田秀樹・渡辺えり子らとともに小劇場第三世代の旗手として注目された[4]。また、エッセイストとしての著作も多く、司会者・コメンテーターなどとしてもテレビにも出演していたほか、アジア女性演劇会議実行委員長・日本ユネスコ国内委員会委員・兵庫県立こども館演劇活動委員・立教大学講師なども歴任した。 経歴小学校時代を中野区の哲学堂公園付近、中学・高校時代を武蔵野市の成蹊中学校・高等学校で過ごし、その間、同校と交換留学制度のあるオーストラリアのニューサウスウェールズ州カウラ高等学校に留学した[2]。1974年、東京女子大学文理学部哲学科に入学[5]。 大学在学中に東京大学とのインターカレッジ劇団、「劇団綺畸(きき)」で活動を始め[1]、1976年(昭和51年)に処女戯曲 『流星陰画館』を発表する[6]。その後『ロミオとフリージアのある食卓』(1979年初演)、『ANOTHER』(1981年)、『工場物語』(1982年)などの作品を次々と作・演出した。同じ劇団に竹内晶子、瀧川真澄[7]、吉見俊哉がいた。劇団活動の傍ら、大学卒業後は一般企業に就職して1年間OL生活、その後学習塾の講師も務めた[1]。 1982年(昭和57年)、「綺畸」を脱退、秋には楫屋一之とのパフォーマンス「光合成Party」を上演する[8]。1983年(昭和58年)、自らの劇団「NOISE」を設立[1]、『DOLL』(1983年)、『MORAL』(1984年 - 86年)などを上演した[6]。これらでは音楽・映像など他分野とのコラボレーションによる、従来の演劇の枠にとらわれないパフォーマンスが行われた[9]。劇団「NOISE」には約30名の劇団員が所属し、マスコミからは「都会派演劇集団」と評されることもあった[2]。 1988年(昭和63年)、ニューヨーク州バッファローで開催された第1回国際女性劇作家会議に日本代表として参加する[10]。1991年(平成3年)より兵庫県立こどもの館で演劇のワークショップを開始する[11]。1992年(平成4年)、第1回アジア女性演劇会議(AWT)の実行委員長を務める[12]。 1995年(平成7年)、平成6年度「O夫人児童演劇賞」を受賞[3]。1998年(平成10年)、第38回「演劇教育賞」特別賞を受賞[3]。 2000年(平成12年)12月7日、立教大学の講師控え室で意識を失い日大板橋病院に搬送され、12月19日、クモ膜下出血のため死去[13]。44歳没。 如月が予定されていた2001年2月の第3回アジア女性演劇会議の実行委員長は、岸田理生が代理を務めた[14]。 舞台
上記の出典は「如月小春略歴」による[15]。 テレビラジオ
音楽著著現物を確認していないものが多いので分類が間違っていたら修正をお願いします。 戯曲
エッセイ・評論・対談
小説
共著・翻訳
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia