天賦人権論天賦人権論(てんぷじんけんろん)とは、「すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利をもつ」という近世西欧で確立された自然権(natural rights)思想を、明治時代の日本人が自国に紹介する際に用いた表現・語り口[1][2]。「nature」の訳語としての「自然」という語彙がまだ定着・普及していない時代に、儒教概念である「天」を代わりに用いて、その意味・ニュアンスを表現しようとしている[1]。天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とも。 対義語は“自由や権利は国から与えられる”とする国賦人権論[3]あるいは法実証主義。 歴史イギリスのトマス・ホッブズやジョン・ロック、ジョン・スチュアート・ミル、フランスのジャン=ジャック・ルソーら啓蒙思想家や自然法学者によって主張された思想である自然権(natural rights)の概念を日本に移入するさいに作られた造語であり、明治初年に福沢諭吉や加藤弘之らが対外的独立を達成するために、封建的身分制を打破し、人民全体を国家の主体的担い手に高めるという意図と結びついて主張されはじめた語である[4]。 日本人間が、自然状態(政府ができる以前の状態、法律が制定される以前の状態)の段階より保持している生命・自由・財産・健康に関する権利(自然権)は不可譲であるとの思想から、とりわけ自由と平等が強調され、明治初期に福澤諭吉・植木枝盛・加藤弘之・馬場辰猪らの啓蒙思想家、民権論者によって広く主張された[2]。 天皇の家庭教師もつとめ、江藤新平ととも洋学中心の体制を整えた加藤弘之は、1875年には『國体新論』を著し「君主も人、人民も人なり」と平等思想を説き、国学の国体論を批判した[5][6]。しかし元老院議官海江田信義が『国体新論排斥の建言書』を提出し加藤を「刺殺しかねない勢いで」恫喝、立花隆によれば、これが理由で政府高官も次々に批判すると加藤は折れ、天賦人権説を妄想として否定するに至った[7]という。[8]一方で加藤が海江田から脅迫まがいの圧力を受けたことは史実と考えられているものの学理的には明治8年(1875)の『國体新論』で明記していたように、天賦の人権と表現しながら「人民は君主政府の保護を受けて、その安全を得るがゆえに、あえてその保護を求むるの権利を有す」とあることから明らかなように、国学者たちの「天下国土をもって一君の私有とする」国体論を非難するばかりでなく、自由民権運動の初期からの彼らの自由平等説に対しても否定的であった。もともと自由民権論者として限界のあった加藤は、明治10年以降、社会的進化論への転向を始めており、明治15年(1882)に至り『人権新説』を上梓し、冒頭でドイツの社会進化論の書籍を多数列挙のうえ、その権威において天賦人権説には歴史的に見て根拠がない旨を開陳している。後半では、社会進化のありさまが述べられ、強者たちが権力をめぐる競争を繰り広げ、その勝者が言わば自らの地位の安全を図るために、弱者にもある程度の自由を保障するのだが、それこそが自由権の起源であり、決して天によって賦与されたがために全ての人間に自由権があるわけではないとした[9]。 この加藤の思想的「転向」宣言は植木枝盛・馬場辰猪・矢野文雄・黒岩大・外山正一らから批判を受けるものの、その後の自由民権運動の衰退とともに、天賦人権の思想も急激に消滅してゆくこととなった[10]。 自由民主党の日本国憲法改正草案では、人権規定について「我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要」であり「現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見」され、こうした規定「例えば憲法11条の『基本的人権は、現在及び将来の国民に与へられる』」という規定は「(第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する)基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」に改めるとしている[11]。 脚注
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