大関増備
大関 増備(おおぜき ますとも)は、江戸時代中期の大名。下野国黒羽藩8代藩主。 享保17年(1732年)11月19日、7代藩主・大関増興の長男として江戸で生まれる。延享5年(1748年)6月13日、江戸幕府9代将軍・徳川家重に御目見し[2]、弾正と通称を改める。宝暦12年(1762年)、藩政改革の私案を「政事改正考草按」にまとめ増興に提出した。宝暦13年(1763年)10月10日、父の隠居により跡を継ぎ、名を増墨から増備に改める。同年12月9日、従五位下・因幡守に叙任されたが[1][2]、1年足らずの翌年8月27日に死去した。 跡を長男・増輔が継いだ。 系譜父母 正室
側室
子女
脚注出典 |