大沢基寿
大沢 基寿(おおさわ もとすみ[要出典]/もとひさ[1]/もととし[1]、旧字体:大澤 基壽)は、江戸時代後期の高家旗本。明治時代のジャーナリスト、編集者。別名は基輔。通称は七助、采女。号は緑陰(緑蔭)。官位は従四位下・侍従、右京大夫。 経歴大沢基暢の子として誕生した。室は鯖江藩主・間部詮勝の娘・福聚。 万延元年(1860年)閏3月1日、14代将軍・徳川家茂に御目見する。同年閏3月25日、部屋住ながら高家見習。明治期の本人の回想によれば、当時14歳であったという。同年4月26日、従五位下・侍従・采女正に叙任する。後に従四位下に昇進、右京大夫に改める。同年8月27日、高家職。 文久2年12月25日(1863年)、父の死去により家督相続する。慶応2年(1866年)11月27日、高家肝煎。慶応3年(1867年)10月14日、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還の上奏文を朝廷に提出する。 万石事件→詳細は「堀江藩」を参照
慶応4年1月22日(1867年)、新政府に服属し、同年2月7日(1867年)には東征軍に資金を献上している。同年8月、新政府に対して石高直しを申請し、実高が1万6石となったという虚偽の報告をした。これによって基寿は同年9月18日、諸侯(大名)に列して堀江藩が立藩する。明治元年(1867年)12月17日、遠江国内の領地の返上と美濃国内に替地の支給を上申する。明治2年6月17日(1869年7月25日)、華族制度が創設されると華族に列し、同月25日(8月2日)、版籍奉還を行い知藩事に任じられる。1871年(明治4年)3月20日、家禄の半分を開拓費にあてることを上申し、同年5月29日に許可されている。同年7月、廃藩置県により免職となる。 同年11月に至り、石高直しに関する虚偽の報告が露見すると、基寿は士族に落とされた上で禁錮1年の刑を受けた。 明治時代基寿は明治時代には出版業に携わる[注釈 1]一方、明治16年(1883年)頃には東京市下谷区区会議員も務めていた[2]。 その後、『東京日々新聞』や『やまと新聞[注釈 2]』の発行にも関わり、後には自ら社長として『絵入日報』を発行した[4]。 また、明治28年(1895年)には条野採菊らと共に、廃業していた三遊亭圓朝を招いて円朝会を催した[5]ことも知られる。 明治32年(1899年)、史談会のインタビューに応じており、この頃までは生存を確認できる。 脚注注釈出典参考文献
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