大村城 (越中国)
大村城(おおむらじょう)は、富山県富山市海岸通に在った日本の城。とやま城郭カードNo.66[1][2]。 規模日本海に程近い神通川の河口の東側に築かれた平城。城域は広大で約15000平方メートルにも及ぶが、今後の調査によってはまだ広がる可能性が有る。この地は城の北を浜街道(旧北国街道)が通り、また水運、海運も栄えた要衝であった。土塁と堀が残っている。また出城としては越中国日方江城が在る。 歴史永正年間(1504年 - 1520年)に越中国の国人、轡田氏によって築かれたという。越中国新庄城に拠っていた三輪氏が上杉勢に滅ぼされた後は新庄城をもその管轄下に置いている。ちなみにこの頃史料に散見出来る轡田氏として轡田「豊後」守、轡田「備後」守(新庄城の城主として名を残している)、轡田「肥後」守(上杉謙信の配下として能登攻めに加わっている)がいる。1578年(天正6年)、上杉方の越中国松倉城主河田長親に攻められて落城。城主轡田豊後守雅正は城を枕に討死した。雅正を含む轡田方の戦死者は瑞円寺の北に在る「精霊塚」に葬られたと云われている。また雅正の長男が生き延びて剃髪し祐専と名乗り、1568年(永禄11年)に富山県富山市婦中町下轡田に在る浄福寺を開いたというが、時期的に符合しない。ちなみに浄福寺にある陣鐘は轡田氏が陣中で使っていたものであると云われていろ。 城跡には瑞円寺と私邸が建っており、寺には轡田氏の位牌と雅正が祀っていたと云われる阿弥陀仏が残されている。 逸話
脚注
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