大木市蔵大木 市蔵(おおき いちぞう 1895年(明治28年) - 1974年(昭和49年))は、日本の食肉加工技術者、畜産学者である。門下に多くの職人を育て上げ、「日本のソーセージの父」と称される[1]。 略歴1895年(明治28年)、千葉県匝瑳郡東陽村(現・山武郡横芝光町)に生れる。1910年(明治43年)、横浜中華街の「江戸清」(店主・高橋清七)に、食肉加工見習いとして就職する。 既に横浜では1887年(明治20年)頃からソーセージが製造・販売されるようになっており[注 1]、日露戦争後には、山下町のドイツ系ロシア人ヤコブ・ベルテが、外国人相手にソーセージを製造・販売していた[注 2]ことが知られている。 このような中、1912年(明治45年)、大木はドイツ人コックマーチン・ヘルツ [注 3]と出会い、弟子入りしてソーセージの製法を習う。1914年(大正3年)、第一次世界大戦勃発。敵国民となったヘルツに代わり、合資会社サシズ屋商会を設立した[注 4]。 1917年(大正6年)、第1回神奈川県畜産共進会に、高橋清七名義でソーセージを出品。続いて1919年(大正8年)、第1回畜産工芸博覧会(中央畜産会主催)に、高橋清七名義で出品、銀賞[注 5]を獲得した。 1920年(大正9年)、合名会社大木ハム製造商会を、横浜市中区元町1丁目25番地に設立する。1923年(大正12年)に関東大震災に遭遇し、ヘルツは神戸に移住、その後帰国した。 1924年(大正13年)、大木市蔵は東京市京橋区(現・東京都中央区)銀座4丁目に日本初のハム・ソーセージ専門店を開設する。また、この年から東京帝国大学駒場畜産研究会で講義を始めた。1930年(昭和5年)、農林省の嘱託を受け、以降、全国各地で食肉加工講習会を行い、技術指導と人づくりにあたった。また1936年(昭和11年)には、高崎ハム協同組合(群馬県)の創立にも携わっている。 戦後は、1949年(昭和24年)、日本ハム・ソーセージ工業協同組合設立。初代常務理事に就任。1956年(昭和31年)、千葉工場を 有限会社千葉大木ハム製造商会に組織変更。 1961年(昭和36年〉には、ハム・ソーセージに関する日本農林規格(JAS)の委員に任命され、規格案を作成する。 多くの弟子を育て、慕われていたため、1963年(昭和38年)、横浜元町の厳島神社に、大木の胸像が建立された。また1973年(昭和48年)には、勲五等双光旭日章(正六位)に叙されている。1974年(昭和49年)8月1日、逝去。 なお、2015年(平成27年)10月8日、一般社団法人日本記念日協会は、大木の出身地である横芝光町商工会青年部からの申請に基づき、大木が初めて品評会にソーセージを出品した1917年(大正6年)11月1日にちなんで、11月1日を「ソーセージの日」と認定した[1]。 脚注注釈
出典
参考文献
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