大徳 (冠位)大徳(だいとく)は、604年から648年まで日本にあった冠位である。冠位十二階の最上位で、小徳の上にあたる。 概要大徳は最上の冠位だが、臣下の最上に与える冠位ではない。当時、厩戸皇子(聖徳太子)とともに政務をとっていた蘇我馬子は、十二階制の冠位を受けず、大徳の上に立っていた。馬子とその子蝦夷は、厩戸皇子とともに冠位を授ける側の人で、授かる側ではなかった。 推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に制定された。大化3年(647年)制定の七色十三階冠制により、翌大化4年(648年)4月1日に廃止になった[1]。十三階制では上から7番目の大錦に引き継がれた[2]。 麻卑兜吉寐中国唐代の書『翰苑』は日本の十二等の官の第一が麻卑兜吉寐で、華言(中国語)で大徳というと記す。この麻卑兜吉寐は発音を転写したもので、マヒトキミまたはマヘツキミ(現代かな遣いではマエツキミ)とされる。マヒトキミ説では真人君の字をあてる。 マエツキミは前つ君、(天皇あるいは大王の)前にいる臣の意味で、朝廷の合議に参加する資格を持つ高官である。マエツキミに『日本書紀』は大夫などの字をあてる。『翰苑』では大徳だけが麻卑兜吉寐と読めるが、大徳の人数は少なく、マエツキミの人数と開きがあるので、マエツキミ説では大徳と小徳をマエツキミにあてる[3]。 大徳の人物史料で知られる大徳の人物は3人いる。3人のうち境部雄摩侶は蘇我氏の傍流である。小野妹子と大伴咋子(書紀では大伴囓)の冠位は『日本書紀』には記されないが、『続日本紀』にある孫の死亡時の記事に、それぞれ大徳冠妹子の孫、大徳咋子の孫とある。小野妹子は前に大礼で、遣隋使の大任を果たした功績で昇進したと考えられています。大伴咋子は大伴氏(氏姓制度では、連だった)を率いて軍事・外交両面で活躍した人物である。 脚注
参考文献
関連項目 |
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