大嶺駅(おおみねえき)は、かつて山口県美祢市大嶺町奥分に存在した西日本旅客鉄道(JR西日本)美祢線大嶺支線の駅(廃駅)である。山陽鉄道の厚狭 - 大嶺間が開通した1905年(明治38年)9月13日に開設されたが、沿線の過疎化や大嶺炭田の炭鉱の閉山などで需要が減り、JR美祢線大嶺支線(南大嶺 - 大嶺間、2.8 km)の廃止に伴い1997年(平成9年)4月1日に廃駅になった。
歴史
大嶺炭鉱の最寄り駅として繁栄した。1953年(昭和28年)には駅の貨物収入が全国で25位となる黄金期を迎えたが、1970年(昭和45年)に炭鉱が閉鎖されると一転して貨物も旅客も激減。C58蒸気機関車が1両の客車を引いて南大嶺駅との間を往復する閑散路線となった。1971年(昭和46年)10月からは、一般貨物の取り扱いが外部委託となっていた[3]。
年表
駅名の由来
駅構造
単式ホーム1面1線を有した駅で、ホームの西側に駅舎を併設していたが1985年(昭和60年)2月1日以降は無人駅となった。かつては多くの側線があったが、炭鉱の閉山後は次々と撤去され、廃止前には1線のみとなった。
- 付記事項
- プラットホームの礎石に「12M15CH」(「12マイル15チェーン」と読む。メートルに換算すると19,613.88 m)の文字が刻まれていた。この距離は厚狭 - 大嶺間の距離(廃止当時の営業キロは19.7 km)とほぼ等しく、山陽鉄道の路線として開業した際に記念に刻まれたことやイギリスの技術を用いて日本の鉄道が建設されたことを示している。この礎石の示す地点は、廃止当時の停車場中心とも一致していた。
- なお、隣接する南大嶺駅にも同じく礎石が残っていたが、大嶺支線廃止に伴うホームの拡張と埋め立てによって現在は見ることができない。また、南大嶺駅の礎石の地点は、現在の停車場中心と若干離れていた。
-
改札口(1991年)
-
構内(1993年11月)
-
大嶺駅ホームの
マイルストーン。中央に「12」「15」の数字が見える。(1993年11月)
-
線路終端と駅舎(1991年)
利用状況
年度
|
乗車人員
|
貨物発送トン
|
1907 |
20,696 |
69,673
|
1912 |
19,131 |
57,030
|
1916 |
19,474 |
73,600
|
1921 |
33,957 |
92,793
|
1926 |
62,713 |
194,308
|
1931 |
68,299 |
208,898
|
1936 |
74,509 |
260,877
|
1941 |
158,840 |
445,028
|
1945 |
144,518 |
144,766
|
1950 |
228,289 |
320,100
|
1955 |
246,326 |
583,248
|
1960 |
190,674 |
837,420
|
1965 |
198,406 |
892,820
|
1970 |
96,491 |
338,814
|
1992 |
5,600 |
-
|
- 『みねぶんか』第6号、美祢市郷土文化研究会、1975年、9頁、山口県統計年鑑1994年
駅周辺
- 駅の前を厚狭川支流の麦川川が流れており、駅があった当時は橋を渡った先に山口県道38号美祢油谷線(旧道)が通っていた。
- 駅と山口県道38号美祢油谷線(旧道)の間は山口県道236号大嶺停車場線が結んでいたが、廃止のちょうど2年前の1995年3月31日山口県告示第262号で廃止され、美祢市道に降格した。大嶺停車場線の廃止・降格と時を同じくして他の駅に至る県道も廃止されたことから(大嶺停車場線を含め19路線)、大嶺支線の廃止に伴うものではなく、県による県道路線の合理化が要因とされている。
駅跡
隣の駅
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)
- 美祢線大嶺支線
- 南大嶺駅 - 大嶺駅
脚注
参考文献
- 曽根悟(監修)(著)、朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)(編)「山口線・美祢線・宇部線・小野田線・岩徳線」『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』第7号、朝日新聞出版、2009年8月23日。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
大嶺駅に関連するカテゴリがあります。
|
---|
|
大嶺支線(1997年廃止) | |
---|
※斜体*は2023年6-7月の大雨災害により不通となっている区間および休止中の駅。 |