大伴三中
大伴 三中(おおとも の みなか)は、奈良時代の貴族。大納言・大伴御行の子。名は御中とも記される。官位は従五位下・刑部大判事。 経歴天平8年(736年)遣新羅副使に任ぜられて、同年秋頃に新羅に渡る。往路の対馬国竹敷浦(対馬島浅茅湾内)で和歌2首を詠んでいる[1]。しかし、当時新羅との関係は悪化しており、使節としての使命は果たせなかった。さらに、伝染病に感染してしまい、大使の阿倍継麻呂は帰途の対馬で病死、三中は病気が回復するまで入京を許されず、翌天平9年(737年)3月になって拝朝を行っている。なお、遣新羅副使としての功労により、従六位下から三階昇進して正六位上に叙せられている。 天平12年(740年)外従五位下に昇叙され、翌天平13年(741年)刑部少輔兼大判事に任ぜられる。兵部少輔を経て、天平17年(745年)大宰少弐に遷ると、天平18年(746年)長門守と一時地方官を務め、同年内位の従五位下に叙せられている。天平19年(747年)刑部大判事として京官に復した。 官歴注記のないものは『続日本紀』による。
脚注参考文献 |