多木化学
多木化学株式会社(たきかがく、英: Taki Chemical Co., Ltd.)は、兵庫県加古川市に本社を置く、肥料や化学品を製造する企業である。日本肥料アンモニア協会にも参加する。肥料、水処理薬剤の大手メーカーとして知られる。 会社概要日本で初めて人造肥料を開発した企業。「しき島」「タキポリン」や「マグホス」といった複合肥料製品は、全国の特約販売店を中心に販売されており、その他、園芸とその分野に関連する製品を数多く生産している。土壌改良材でも数多くの製品を持つことで知られ、肥料分野では国内大手メーカーの1つであり、日産化学、三菱化学(現・三菱ケミカル)と共に日本の農業分野の発展に大きく影響を及ぼした。化学品分野では無機系水処理薬剤を得意とし、ポリ塩化アルミニウムPACは世界トップレベルにある。国内シェアは40%で国内最大手である。また加古川市別府付近に広大な土地を所有し、不動産事業の展開も行なっている。 二本の鍬の柄を重ね合わせたマーク(神代鍬)は同社の登録商標であり、農村部では昔ながらのホーロー看板が店の軒先に取り付けられているところも多い。 戦時中の1944年には、住友化学工業と共に、住友精化の設立に参加したことでも知られる(住友精化の主要工場は同社の本拠地に近い加古郡播磨町や姫路市に現在も存在する)。本社工場と同住所に住友精化があり、多木化学が土地を譲渡している。その他、能登半島において、人造肥料の原料となる燐鉱の採掘を行なっていた時期もあった。 同社の本社が加古川市にあり、隣の姫路市に蔵を構える壺坂酒造に原料である山田錦を同社の肥料(「しき島6号」と「タキポリン」と「マグホス」使用)で育成したことなどの経緯から、同社の登録商標である二本の鍬をあしらった「神代の鍬」という大吟醸酒が発売されていたことがある。 沿革
創業者初代社長の多木粂次郎は、加古郡別府村で代々農業、醤油醸造業、魚肥商などを家業とする地主の多木勝市郎とシカの3男として安政6年(1859年)に生まれ、20歳で家業を継いだ[4][5]。当時主要肥料だった鰯粕の高騰により困窮する農家のために明治18年(1885年)に獣骨を使った日本初の蒸製骨粉製造を始め、明治23年(1890年)より骨粉を原料とした過燐酸石灰の化学肥料製造を開始した[6][7][8]。当初はその臭いが嫌われて就労者が集まらず、近隣からは廃業・移転を迫られるなど困難を極めたが、農業関係者に無料配布したり農業講話を行うなど農家の啓蒙活動や販路拡大に尽力する中、帝国大学農科大学より招聘されたオスカル・ケルネルがリン酸肥料の効用試験成績を発表したことにより人工肥料の需要が高まり、事業は急成長した[6]。1888年から数年間、前田正名の委託により「播州葡萄園」の経営にも携わった[9]。明治36年(1903年)には、妻うの子との娘ゆき子の夫に、但馬の資産家長島家の出身で帝国農科大卒の三郎(三良)を迎えて養嫡子とし、自社の副社長とした[10]。 村議(明治22年)、県議を経て、明治41年(1908年)には衆議院議員に当選(以降当選6回、政友会)[4]。同年欧州旅行の帰路に満州・朝鮮に立ち寄り、日韓併合以降、朝鮮で農場、鉱山、山林の経営に着手[11]。兵庫県農会長なども務め、農業界への貢献により大正4年(1915年)に藍綬褒章、翌年に紫白綬有功章を受賞[5]。大正7年(1918年)には組織を株式会社にし、敷地面積5万坪、職工1000名を抱える大企業に成長させ、海外にも輸出して肥料王と呼ばれた[4][5]。同年、『外米管理ニ依ル米価調節ニ関シ農商務大ニ与フルノ書』を上梓。大正9年(1920年)には私立別府中学校を設立(その後兵庫県立農業高等学校の移転先として寄付)[12][13]。大正11年(1921年)に自社製品輸送用に別府軽便鉄道(現・別府鉄道)を敷設し、播陽銀行の取締役としてその経営にもあたった[14][10]。昭和14年(1939年)、朝鮮癩予防協会への寄付により紺綬褒章を受勲[15]。昭和14年(1939年)9月29日に貴族院議員となり[16]、交友倶楽部に所属し[17]昭和17年(1942年)に84歳で死去した[4]。日本肥料理事、勲三等[18]。昭和8年(1933年)に迎賓用に建てた西洋館は国の登録有形文化財および、景観形成重要建造物「多木浜洋館(同比閣)」として保存されている。 その他過去には長年に渡り、1974年からJR西日本の明石駅前に、同社の社章の二本の鍬マークと社名、そして同社の本社所在地の”加古川市ベフ”との表記の入った小型のネオンサインを設置していたことで知られる。このネオンサイン[19]は、2013年の明石駅前の再開発事業に伴う建物取り壊しに伴い、撤去されている。 拠点
関係会社
脚注
関連項目
外部リンク |