増田 (名取市)
増田(ますだ、英語: Masuda)は、宮城県名取市の多くの小字および増田一丁目から九丁目までを擁する町字かつ、名取市の地区名であり、大字増田は旧名取郡増田郷の一部、旧名取郡増田村[注 1]の一部、旧名取郡増田村のち増田町の大字増田の一部[注 2]に該当する。増田一丁目から増田九丁目にて住居表示を実施している[5]。大字増田の郵便番号は981-1224[2]。名取市ホームページによると、増田(町字)の2022年(令和4年)6月末時点での域内の人口は8,140人であり、世帯数は3,811人である[1]。この項では、主に町字の増田について解説する。 地理増田は、東部で杜せきのしたや下余田と、西部で手倉田や大手町と、南部で飯野坂と、北部で上余田と接し、旧名取川と旧阿武隈川の自然堤防上に立地している[6]。名取駅を中心に栄えており、住宅街や商業施設が展開し、名取市の中心的地域としての役割を担っている[6]。しかし、増田字大畔や増田字猫塚に該当する地域は田畑が多く、住宅街はあまり見られない[6]。 江戸時代から、奥州街道の宿場町として発展していたこともあり、所々にその名残がある[6]。 河川
小字名取市例規「町及び字の名称」によると、2022年7月1日現在における増田の小字は以下の通りである[7]。
行政区増田地区と増田西地区、館腰地区の三つの地区が大字増田を占めており、それぞれその下に数多の行政区を擁する[8]。以下は2021年5月1日に施行された名取市行政区設置規則による行政区である[8]。
地価2022年(令和4年)の公示地価によれば、下記の増田の宅地および宅地見込み地における地価は次の通りである[9]。
歴史古くは増田は益田、まし田(ました)といった名称でも呼称され、当地の名(益田)が残っている最古の書物は1352年(観応3年)4月29日の名取熊野堂文書であるとされる。同状には
とあり、欠字部分は南方益と考えられている[10]。これは熊野堂別当御房に益田宿に関所を設け、凶徒らの尋究など警護をするよう命じられており、増田一帯が北朝方の勢力下にあったとされる[10]。さらに1386年(至徳3年[注 6])12月2日の相馬文書によると
とあり、増田郷が本郷(現在の大字増田と考えられる)と下郷(現在の大字下増田と考えられる)に分かれていたことを示す[11]。 江戸時代になると、仙台藩が増田を支配し、増田は名取郡南方三十村の一村として含まれた。また、奥州街道の付替以後、宿駅(増田宿)が置かれ、正保郷帳による田畑の貫高はそれぞれ、田は194貫838文、畑は13貫124文、元禄郷帳による村高は1,494石余、天保郷帳による村高は1,713石余、封内風土記による戸数208であったとされる[11][12]。駅の定員は、1864年(元治元年)の名取・柴田・刈田3郡18駅検断連署によると、馬15頭、人足15人、1855年(安政2年)からは馬25頭、人足25人となっている[11]。道中往来歌には
とある[13]。 1602年(慶長7年)になると、名取郡北方の長町とともに郡奉行の下に代官所が増田に置かれた[11][10]。 近代になると、増田は戸数187、男573人、女1,165人、牡馬77頭、日本形船3隻、人力車32台、荷車3台であり、民業は農業が143、工業14、商業25であったとされる[注 7]。 1876年(明治9年)に明治天皇が東北巡幸の際にこの地を訪れ、江戸時代終期から明治時代にかけて名取郡増田北町の肝入検断をつとめた菊池善蔵邸内の庭で休息をとっていた際、随行者の木戸孝允が庭にあった老松をみて、
と和歌を詠んだとされる[14]。これにちなんで、その松は衣笠の松と命名された[14]。 沿革
名称の由来増田の名は新田開発をこの地で行ったことに因むとされる[16][17]。 施設
交通鉄道道路バス統計人口名取市によると2022年(令和4年)6月末時点での大字増田の人口および世帯数の統計は以下の通りである[1]。
学区名取市立学校の通学区域等に関する規則によると、公立小中学校の場合、域内の児童は名取市立増田小学校と名取市立増田中学校に進学する[35]。 地区名としての増田増田地区(ますだちく)は名取市の地区名であり、2021年(令和3年)7月末時点において、人口、世帯数共に名取市内で最も多い地区である[36]。本町一区、本町二区、北町一区、北町二区、北町三区、田高町東第一区、田高町東第二区、田高町西第一区、田高町西第二区、田高第二区、上余田南区、上余田中区、上余田北区、下余田南区、下余田西区、下余田北区、村区、杜せきのした一丁目区、杜せきのした二丁目区、杜せきのした三丁目区、杜せきのした五丁目区の計21区の行政区からなっている[8]。 行政区ごとの人口は以下のとおりである[36]。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
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