塚本素山塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日[1])は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業。本名は、塚本清。 経歴1907年(明治40年)9月1日、千葉県に生まれる。 旧制千葉県立佐倉中学校を卒業する。1935年(昭和10年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。 1945年(昭和20年)8月、陸軍大将の田中静壱の専属副官を務める中、宮城事件の鎮圧に同行、終戦となる。敗戦直後から辰巳栄一と親交をもった。そして1949年頃に米軍の情報関係者の仲介で児玉誉士夫と知り合った[2]。 1956年(昭和31年)、日鉄中央機械、日新興業、日新実業が合併した塚本総業を設立し、代表取締役に就任する。塚本不動産社長、八盛興業社長、日新興業会長、大和通運会長を務め、日本カーフェリー(現・マリンエキスプレス)取締役、ニューナラヤ(のち、千葉三越。2017年3月閉店)取締役などを兼任する。 1961年(昭和36年)、創価学会に顧問制度が創設され、日蓮正宗法華講連合会会長(当時、初代委員長)の平沢益吉、三菱銀行員の戸田喬久の2人と共に創価学会顧問(初代)に就任する。 埼玉県熊谷市の法潤寺の建立を発願し、1963年(昭和38年)に、法潤寺が建立された。また、同年に大和製鋼(現・大阪製鐵)の代表取締役に就任した。 1965年(昭和40年)から塚本素山ビル4Fの日本刀美術館(現・佐倉市の塚本美術館)館長を務める。 1969年(昭和44年)8月、藤原弘達の『創価学会を斬る』が出版されそうになると、小佐野賢治や田中角栄に、8000万円で出版を止めさせる交渉をさせた。これが世論で問題にされて以来、創価学会の活動は鈍くなった[3]。 →「藤原弘達 § 創価学会・公明党に対する批判」も参照
埼玉県朝霞市の日成寺の建立を発願し、1978年(昭和53年)に、日成寺は建立された。 千葉県長生郡一宮町の法清寺の土地を寄進し、死後1984年(昭和59年)に、法清寺は建立された。 人物役職歴
著書関連文献
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