堀井利勝

堀井 利勝(ほりい としかつ、1911年1月18日 - 1975年3月29日)は、昭和時代の労働運動家日本労働組合総評議会(総評)議長。

経歴

北海道十勝郡浦幌町生まれ。1928年国鉄札幌鉄道教習所卒、国鉄札幌鉄道局に入社[1]。1934年国鉄を退社[2]。1935年釧路臨港鉄道に入社、1945年駅長。1946年駅長を辞めて労働組合を結成、初代委員長。北海道交通運輸労連委員長を経て、1950年日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)副委員長、1956年同委員長[1]。同年9月社会党に入党[3]。1958年全日本交通運輸労働組合協議会(全交運)議長。1966年太田薫の後を受けて日本労働組合総評議会(総評)議長[1]。1970年6月、70年闘争のさなかに国連とUAW(全米自動車労組)共催の国際公害会議「人間環境についての都市化の影響」に出席するため渡米。総評幹事会で決定されたものだったが、太田薫合化労連委員長から70年闘争を軽視するものと批判され、同年8月の大会で岩井章事務局長とともに退陣した[2]。同年総評顧問。社会党では江田派に近かった[1]

1975年3月29日、脳軟化症のため死去。64歳[3]

脚注

  1. ^ a b c d 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
  2. ^ a b 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』明石書店、2015年、323頁
  3. ^ a b 市川誠「温容のなかに厳然,偉大な指導者を慕う〔堀井利勝前総評議長〕」『月刊社会党』222号、1975年6月

外部リンク