坊門家
坊門家(ぼうもんけ)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した公家。坊門を名乗る家系はいくつか存在するが、藤原北家の関白藤原道隆の子孫が著名である。 歴史平安時代藤原道隆の子の伊周と隆家は叔父道長と対立し、花山法皇に矢を射かけた罪で左遷された(長徳の変)。後に罪を許され、隆家の子の経輔は正二位権大納言まで昇進したが、道隆の弟の道長の子孫が藤原北家の嫡流となり摂政・関白を世襲していったため、道隆の子孫はしばらく不遇の時代を送ることになる。 平安時代の後期になると、経輔の孫の経忠は妻の実子が鳥羽天皇の乳母であったことから院近臣として白河法皇および鳥羽法皇に仕え、従二位中納言まで昇進した。経忠の孫の信隆は生前は正三位非参議止まりであったが、安徳天皇が平家一門とともに都落ちすると、信隆の娘で高倉天皇の典侍となっていた殖子(七条院)所生の尊成親王(後鳥羽天皇)が皇位を継承し、後鳥羽天皇の外祖父にあたる信隆は従一位左大臣を追贈された。坊門を家名としたのは信隆の子の信清と隆清の代からであるが、家名の由来は信隆の私邸が七条坊門小路沿いにあったことによる[1]。 鎌倉時代鎌倉時代の前期の坊門家は将軍源実朝の室や後鳥羽天皇の女房を出しており、坊門家は権勢を誇った[1]。しかし、建保4年(1216年)に信清が薨去して以降、建保7年(1219年)には将軍実朝が暗殺される。その後に起きた承久の乱において、信清の子の忠信は討幕勢力に与したため流罪に処せられた[1]。当時、忠信は権大納言の地位にあり、討幕計画に関与した公家の中では最も官位が高かった[2]。以後、隆清流の基輔、清忠などを除き、鎌倉時代を通して坊門家から公卿が出ることはなかった。 近年の研究では、基輔や信清の子の有信の子である信通らは、九条道家に近侍し九条家一門との数代にわたる姻戚関係を築いていた一方で、関東祗候の廷臣として鎌倉幕府の将軍にも仕えるなどして一定の権勢を保っていた。またそれゆえ、小槻家領である新見荘領家職の押領を企てるなど、他家領の浸食も可能であったことが指摘されている[3]。 南北朝時代南北朝時代になると、信清の子孫の信行が北朝において公卿に列し、隆清の子孫の清忠は後醍醐天皇の側近を務めた[1]。しかしいずれの系統も断絶したために、後世に家名を伝えることはできなかった[4]。 なお、坊門忠信は坊門家庶流の信成を養子としている[5]。信成の子孫からは水無瀬・七条・町尻・桜井・山井の5家が堂上家に列し、明治時代にはいずれも華族となって子爵を授けられた。 系譜
系譜参考
脚注参考文献
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