地動説地動説(ちどうせつ、英: the Copernican theory)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球はほかの惑星とともに太陽の周りを自転しながら公転しているという学説のことである。 地動説は、宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)に対義する学説である。太陽中心説「Heliocentrism」ともいうが、地球が動いているかどうかと、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかは異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。 聖書の解釈と地球が動くかどうかという問題は関係していたが、地球中心説がカトリックの教義であったことはなかったとする考えもある[1]。 しかしローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の1992年の声明によれば、「地球が世界の中心であるという表現が聖書の教えと完全に合致するものとして、当時の文化に広く受け入れられ、聖書の記述は文字通り理解するなら、地球中心説を確証するようにも思われた」[2]。 アリストテレスをキリスト教神学に取り込み「哲学は神学の婢」と位置付けたトマス・アクィナスを聖人とする教会にとって、アクィナスの大著『神学大全』はまさに神学の金字塔であった。アリストテレスの天動説を否定されることは、神学の権威への挑戦であった。 地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られたストーリーであり、事実とは異なるとする考えもある[1]。ガリレオ自身、敬虔なカトリック信徒でありながら、哲学や宗教論から科学を分離することを提唱し、教会の権威に基づいた科学的理論を否定していた。これが結果的にはガリレオを異端者として扱う根拠になったとされる。 歴史古代の地動説紀元前4世紀のアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。そもそも古代において、実際に自分の眼で見て、1日1度太陽が地平線の上に昇り、そして地平線下に下り、太陽以外の天体も同じように動いている以上、その現象をそのまま受け取って解釈するのが普通であった。 しかしながら月に関してはほかの天体と動きが異なること、さらに天体観測が発達すると惑星がほかの天体と違った動きをとり、さらに時折、天球上を逆方向に動くことも認識された(逆行)。 そうした中、コペルニクスよりも以前に地球が動いていると考えた者がいた。有名なところでは紀元前5 - 4世紀前後のフィロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。 特に傑出していたのは、紀元前3世紀のイオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心に据え、惑星の配置をはっきりと完全に示したことである。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたもので、惑星の逆行を完璧に説明できるのである。これはほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまでの1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった[3]。 なお、後世のレオナルド・ダ・ヴィンチもまた、地動説に関する内容を「レスター手稿」に記している。 広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。 天動説の優勢2世紀にはアポロニウス、ヒッパルコス、クラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化した。彼らは決して迷信や宗教的な考えから天動説を唱えたのではなく、当時知られていた知見に基づき、科学的・合理的な解釈の帰結として天動説を唱えた。これに対し、アリスタルコスの地動説では、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのか、その説明ができなかったことが弱点とされた。また、アポロニウスの提唱した従円と周転円の概念、さらにプトレマイオスの提唱したエカントの概念を得て、天動説は当時の天体観測の精度において、惑星の逆行をほぼ完璧に説明することができた。 とはいえ、おかしなところは存在した。たとえば
などが挙げられる。しかし、これらの現象を説明し、精密に惑星の位置を予報できるほかの説はなかなか現れなかった。 また、ヨーロッパでは古代ギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。 こうした理由で、科学的な難点を含みながらも16世紀まで天動説は支持された。天体観測の精度が向上するにつれてプトレマイオスの体系との乖離が見られるようになったが、周転円の上にさらに周転円を重ねる事で、説明された。16世紀にはコペルニクスが地動説を提唱するも、天体観測の精度においては天動説に優るものではなかった。 大航海時代天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。 大航海時代以前は船舶の運航はもっぱら沿岸航海であり、陸地が見える範囲に限られ、何も目印のない遠洋を航行することができなかった。羅針盤が登場したことで陸地を離れた航行が可能となり、方位磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになった。しかし当時の星表には問題がかなりあった[5]。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。 さらに、もうひとつ問題が生じつつあった。当時使用されていたユリウス暦の1年は、観測される1年よりわずかに長かったのである。この結果、紀元前45年の制定以来1000年以上経つうちに暦と天体の運行にずれが生じ、たとえば暦の上の春分の日が3月21日であるのに対して、実際に観測される春分は10日早い3月11日となっていた。春分の日は、キリスト教でもっとも重要な行事の一つである復活祭の日付を計算するうえで基準となる日であり、これが10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、約300年間放置されていた。 一般に言う1年は厳密には回帰年であり、その定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値はほかの天文学的な値からは孤立した独立の量で[4]、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。 コペルニクスの登場カトリック教会の司祭であったニコラウス・コペルニクスは、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ[6]、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、ほかの恒星の位置にとるかの違いによる。 コペルニクスは1543年に没する直前、彼の思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定し直せるようにした。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行ったためである[7]。 またこの業績について、ガリレオ・ガリレイから「太陽中心説を復活させた」と評された[3]。 コペルニクス以降の学説その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年にグレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は取り入られなかった。プトレマイオスの天動説も取り入れられていない。 しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた。なお、この月の運行理論は、アラビアとは独立にコペルニクスが再発見したという説もある。 コペルニクスの地動説理論コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的に変換しただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、地球を含む全惑星の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値が相互に関連しているため、どこかの値が少しでも変わると全体の体系がすべて崩れてしまう[8]。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。 コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である[注釈 1]。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きを説明できず、コペルニクスの著書では、周転円や中心から外れた太陽が引き続き用いられた[1]。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であり、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じ、楕円軌道に気付くことはなかった[注釈 2]。『天体の回転について』は彼の死の直前に出版されたが、コペルニクスが恐れたような批判は起こらなかった[1]。 ドミニコ会の間では、地動説の教えを禁止すべきだという提案が早くからあったが、当時は何も起こらなかった。 『天球の回転について』 の出版から数年後、ジャン・カルヴァンは説教の中で「太陽は動かず、地球が回転し自転している」と述べて「自然の秩序を歪める」人々を非難した。 本は読まれたが、ほとんどの読者は説得されず、支持者はほぼいなかった[1]。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さを算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかった。彼の理論はそれまでの地球中心説より観測データと適合するということも、自然学的に見てシンプルだということもなかった。(天動説の計算は確かに「惑星が地球から見える方向」はそれなりの予想精度を持って示すことができる。しかし、それを「惑星の明るさの変化」にも当てはめようとすると矛盾が生じる。)コペルニクスにはプトレマイオスが明確にできなかった「火星、木星、土星が逆行するときはなぜいつも惑星が太陽のちょうど反対側にあるのか」が説明できるようになった。動く地球というものが基礎的な自然学や常識、おそらく聖書と衝突しており、彼の説が真実だと考えることは困難だった[1]。物体は宇宙のもっとも低い地点である宇宙の中心に自然に落下すると考えられていたが、コペルニクスの説では、地球が太陽の方に落下しない理由はわからなかった[1]。また地球が24時間で一回転するなら非常に高速で動いているはずであるが、動きを感じることはできず、空を飛ぶ鳥が置き去りにされることもなかった。地球が太陽の周りを回るなら星々は視差を示すはずだが、視差は観察されなかった。視差がないということは、地球が動いていないか、恒星が不可解なほど遠くにあるということを示していた。視差がなく、地球が動いていると仮定するならば、恒星はもっとも短く見積もっても2,400億キロメートルの彼方にあることになるが、その遠大な空隙は読者にとって不可解なものであった[1]。 コペルニクス後の地動説以上の理由により、コペルニクスの体系を真実と考える人はほとんどいなかったが、そもそも当時の多くの天文学者は、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかを確実に説明できるとは考えていなかった[1]。彼らが欲していたのは理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。当時は占星術が気象予測や医療において実用的に大きな意味を持っており、過去・現在・未来の惑星の位置を分単位で計算する必要があったためである。惑星の位置を決定するための表は太陽中心体系の方が簡単であり、コペルニクスの体系は便利な虚構として利用された[1]。 コペルニクスの著書では計算に必要な値があちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であったため、1551年、エラスムス・ラインホルトがコペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であった。また誤差もわずかにプロイセン星表の方が小さいとはいえ、プトレマイオス説と大して変わらなかった。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。 それまで惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。ほかにも似た方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説に基づいて同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の地位は大きく揺らいだ。 ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった[注釈 3]。1597年、『宇宙の神秘』を公刊。コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。 ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。まず実験によって慣性の法則を発見した。これはアポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオスらが地動説を否定した根拠である、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのかを、合理的に説明するものであった。そして実際の天体観測において、木星の衛星を発見し、地球が動くなら月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を封じた。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測した。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。さらに太陽黒点も観測し、太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、のちに潮の干満は月の引力によるものだとして否定された。 ガリレオ裁判→詳細は「ガリレオ・ガリレイ § 裁判」を参照
ジョンズ・ホプキンス大学の科学史教授ローレンス・M・プリンチペは、「ガリレオと教会」は神話と誤解に満ちたエピソードであると指摘している[1]。知的・政治的・個人的問題が絡みあって起きた事件であり、いまだ完全に解明されていないが、「宗教対科学」という単純な構図ではなかったことが分かっている[1]。科学と宗教の対立という構図は、19世紀に科学者によって作られたストーリーである[1]。 地球中心説がカトリック教会の正式な教義であったことはなく、教会は地球中心説と太陽中心説のどちらが真実かという問題に直接利害関係を持っていなかった。ガリレオの支持者と反対者は教会の中と外の両方に存在しており、ガリレオの最初の主要な支持者はイエズス会の天文学者たちであった[1]。宗教裁判所がガリレオに出した地球の運動を撤回するようにという命令は、タイミングの悪さや政治的陰謀、教会の派閥争い、聖書の解釈権、友人だったローマ教皇ウルバヌス8世(マッフェオ・バルベリーニ)とのいさかいなどから起こったと考えられている[1]。聖書の解釈権を有しているのは教会であったが、「動く地球」が聖書の解釈に関わっており、ガリレオは1610年代にこの問題について、自説を擁護するために性急に口出しをしていた[1]。自分の主張を通すために伝統的な解釈を拒否するというやり方は、同時代のプロテスタントに似ていた[1]。ガリレオはウルバヌス8世と、太陽中心説と地球の運動の明らかな証拠が出るまで仮説として扱うという約束をし、『天文対話』を書く許可を得た[1]。しかし、ヴァチカンの許認可官と検閲官の承認を得て本が世に出ると、ウルバヌス8世は、約束した内容は最終ページでわずかに触れられるのみで、しかも道化役を演じた人物から語られていることを知った[1]。三十年戦争に関する外交交渉、政争や批判で疲弊していたウルバヌス8世は侮辱されたと感じて激怒し、宗教裁判所による司法取引の提案を拒み(司法取引が認められれば、ガリレオは軽微な罪とされ自宅に帰されるはずだった)、ガリレオに地球の運動を撤回するように命じ、ガリレオはこれに同意した[1]。しかしウルバヌスの甥を含む枢機卿たち数人は、ガリレオの判決文に署名することを拒否しており、教会の総意でなかったことがわかる[1]。 その後、ガリレオはトスカーナにある自分の別荘に軟禁され、そこで仕事を続け、弟子を教え、もっとも重要な本『新科学論議』を書いた[1]。今日では、ガリレオは異端として断罪された、投獄されたといわれることも多いが誤りであるとする考えもある[1]。 しかし異端でないガリレオになぜ異端審問所が無期刑を宣言できたのか、なぜ著書が禁書目録に指定されたのか、なぜカトリック教徒として葬ることも許されなかったのか、を考えると実質異端扱いであり異端として裁かれなかったと主張するのは難しい。 裁判の際にガリレオが「それでも地球は回っている」と呟いたというエピソードに証拠は存在しないが、現在に至るまで象徴的に語り継がれている。 ガリレオ裁判以降ガリレオの判決の影響を正確に推し量ることは難しい。ルネ・デカルトなど何人かの自然哲学者は、コペルニクス説への確信を表明しようとしなくなった[1]。デカルトは4年の歳月をかけて書き上げた『世界論』を1634年に出版予定していたが迫害を恐れ断念した。『世界論』の出版は彼の死後14年も経った1664年となった。 カトリックの聖職者はコペルニクス体系を公然と支持できなくなり、ティコ・ブラーエの体系かその変形版を採用した[1]。しかし一方で、天文学を含む科学的探究は、イタリアやほかのカトリック国でも行われ続けていた[1]。ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)という地位であったためか、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。 コペルニクスの説は、天体は円運動をするという従来の常識に縛られており、プトレマイオスの天動説と同様に周転円を用いて惑星の運動を説明していた。ケプラーはティコ・ブラーエの観測記録を丹念に研究し、惑星の軌道が楕円と仮定するとより単純かつ正確に軌道を説明できることを発見し、それを元に『ルドルフ表』(ルドルフ星表)を作り、1627年に公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を元にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。ルドルフ表の精度の前には、いまだ年周視差が観測できないという地動説の欠点は、些細な問題と考えられた。 しかし、ケプラーもガリレオも、鳥がなぜ取り残されないのか、地球がなぜ止まらないで動き続けているのか、という疑問にはいまだ正確な答えが出せないままでいた。ガリレオは慣性の法則を発見するも、その現象がなぜ起きるかの原因の説明には至らなかった。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化すること、万有引力の法則を発見すること、科学において原因については仮説を立てる必要はないとする新しい方法論を提示することで、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となった。 また、ガリレオやケプラーの地動説は、宇宙の中心を太陽とするものであった。ニュートンの万有引力の法則は、惑星が太陽を中心に公転するのは、単に太陽が惑星と比べて質量がきわめて大きいからにすぎないことを示し、太陽が宇宙の中心であるという根拠は存在しなかった。ニュートン以降も太陽が宇宙の中心とする考えに縛られていた研究者も多く、たとえばウィリアム・ハーシェルは銀河系が円盤状構造であることを発見しながら、太陽がその中心にあると考えたが、次第に太陽も数多くの恒星のひとつにすぎないという認識が広まっていった。年周視差がいまだ観測できないことは、恒星が惑星よりもはるかに遠方にあることを意味し、それでもなお地球まで光が届くことは、恒星が太陽に匹敵あるいは凌駕する規模の天体であることを意味していたからである。 ただし、地動説の証明を確固たるものとするには、ジェームズ・ブラッドリーの光行差の発見、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセルによる年周視差の観測の成功も必要となる。 1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はガリレオ裁判の誤りを認め、公式に謝罪した[9]。 謝罪と報道されているが、実際にはガリレオに対しての「ごめんなさい」「すまなかった」「反省している」などの発言は一切なかった。裁判の誤りを婉曲的に表現しただけであった。 2008年にはローマ法王ベネディクト16世が「彼の研究は信仰に反していなかった」と地動説を公式に認める発言を行っている[10]。 2008年1月、教皇ベネディクト16世のローマ大学での講演が、学生と研究者たちの激しい抗議運動により中止となった。 彼の枢機卿時代の発言「ガリレオの時代、ローマカトリック教会はガリレオ自身よりもはるかに理性に忠実であり続けた。ガリレオに対する一連の措置は、理にかなった公正なものだった」が大きな反発を呼んだ[11]。 2014年、アメリカ科学振興協会は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している[12]。 太陽中心説とキリスト教
地動説について言及する際に、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害されたという主張がされる。ローレンス・M・プリンチペは、「科学者」と「宗教家」の勇壮な戦いという19世紀後半に考案され普及した闘争モデルは、現在(2011年)においては、科学史家は皆否定していると述べている[1]。このモデルでは、歴史的な状況を正しく理解することはできないと指摘し、ヨーロッパ近世初期の自然哲学者は、自然を知ることは神を理解することであると考えており、信仰と科学的探究に矛盾はなかったと主張する[1]。参考までにプリンチペの視点から両論を併記する。 迫害されたとされる根拠(プリンチペは、多くは逸話であり史実とは異なると主張する)
「太陽中心説が、批判された理由であった」とするもの
反論上記のような「科学者」と「宗教家」の闘争というモデルはプリンチペにより否定されている[1]。上記のような説に対しては、以下のような反論がなされた。
古代中国の「地動説」古代中国においても、独特な「地動説」が存在した。『列子』の「杞憂」の故事の原文には「われらがいる天地も、無限の宇宙空間のなかで見れば、ちっぽけなものにすぎない」(夫天地、空中一細物)とあり、当時すでに宇宙的スケールの中では「天地」でさえ微小な存在だという認識があったことがわかる(ただし、古代中国人は「天地」が実は「地球」であることを知らなかった)。漢代に流行した「緯書」でも、素朴な地動説が散見される。たとえば『春秋』にこじつけた緯書には「天は左旋し、地は右動す(天左旋、地右動)」、「地動けば則ち天象に見(あら)わる(地動則見於天象)」とある。『尚書』(書経)の緯書に載せる「四遊説」は、大地は毎年、東西南北および上下に動いているという奇怪な地動説であるが、「大地は常に移動しているのだが、人間は感知できない(原文「地恒動不止、人不知」)。それはちょうど、窓を閉じた大船に乗っている人には、船が動いていることが知覚できないようなものだ」とあわせて説いている点が注目される。唐の柳宗元も、こうした中国独特の地動説をふまえて漢詩を詠んでいる(「天対」)[18]。上述のとおり、西洋の Heliocentrism(太陽中心説。現代中国語では「日心説」)の訳語として「地動説」は不適切であるとする意見もある。古代中国の「地動説」は、Heliocentrism とは異質の宇宙観ではあるものの、「地右動」「地動則見於天象」「地恒動不止」など明確に「地動」を説く、文字通りの地動説であった。 中世イスラム世界の地動説ウマル・ハイヤームの時代のイスラムの天文学者は、すでに「太陽中心説(地動説)」を知っていたが、それを公言することはイスラム教の正統主義から攻撃される危険があったため黙っていたと推測する説がある[19]。その根拠のひとつは、ウマル・ハイヤームの四行詩(ルバイヤート)の中の次の一首である[20]。
このほか、コペルニクスの地動説も、実はイスラム世界の天文学にその原型があったと推測する学説すらある[21]。 一方、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年 - 1048年)は、その著書『マスウード宝典』にて地動説を記載している。また、(地動説かどうかは不明だが)アッバース朝のマアムーンの時代に、アル=フワーリズミーがユーフラテス川の北、シンジャール平原やパルミラ付近で地球が球体であるとの前提で経緯度および子午線弧長の測量を行っている(その測量結果からすると、地球の周長は3万9,000キロメートル、直径は1万500キロメートルとなる)。 地動説と日本慶長11年(1606年)にイエズス会の修道士、イルマン・ハビアンと林羅山が地球論争を行っている。ファビアンは地動説と地球球体説を主張し論陣を張った。この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、天動説と地球方形説を主張し羅山が勝利するということになった[22]。 徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したあと、徳川家治の時代になって、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。旗本の片山松斎(円然)は司馬江漢から地動説のことを教えられ、『天文略名目』など地動説を紹介する書を著している。医者の麻田剛立が1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。 仏教界では、江戸前期に游子六の『天経或問』で天動説が紹介されて須弥山宇宙観が揺らいで以来、文雄、普寂らが須弥山宇宙観擁護を行っていた。地動説紹介後、この擁護は精密さを増す形で展開されてゆき、円通は三角関数表を作成したり[23]、数学者の梅文鼎に言及しながら、仏教的宇宙観・梵暦擁護の書『仏国暦象編』を著した。ここで西洋の暦もインド起源であることも主張した[24]。 地動説のもたらしたもの地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を科学革命の時代ともいうのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。 “常識をひっくり返す(証明されている)新説” を「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である。また革命(Revolution)なる言葉も、元はこの科学革命を指す言葉であり、のちに政治用語にも転用されたのである。 脚注注釈出典
参考文献
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