国頭朝致国頭親方朝致(くにがみうぇーかたちょうち、? - 1635年7月27日)は、琉球王国の官僚。唐名は向鶴齢(しょう かくれい)を名乗った。元の名乗りは国頭重信(くにがみじゅうしん)[1]。 向氏大宜見殿内と称される貴族家系の家祖である。浦添朝師の子、浦添朝利の兄にあたる。1622年、三司官に選ばれた[2]。 尚豊王は1633年、国頭と喜友名親雲上を明への冊封使として派遣した。国頭はこの際、薩摩による琉球征伐以前と同じく、貢期を3年に2回とすることへの許可を求め、崇禎帝により了承された[3][1][4] 。2年後、国頭は帰路で重病を患い、福建省にて没した[3]。 脚注
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